昨年、歴史学者の阿部謹也氏が亡くなり、新聞に追悼記事が載ったのがきっかけで著書を何冊か買って読んだ。私はそれまでお名前だけしか知らなかったのだった。最初に読んだのは「ハーメルンの笛吹き男」(ちくま文庫)
これは阿部氏が西ドイツに留学中の1971年のこと、ゲッチンゲン市の州立文書館でたまたま見つけた一つの古文書に「鼠捕り男」という言葉が書いてあるのが目にとまったことが発端となっている。他の自伝的な著書を読むとよくわかるのだが、中世ヨーロッパの古文書というのは、ちっとやそっとで読めるものではないらしい。まる一日かかっても数行、よく読めて一枚などという日々の連続で、とんでもなく難しいものらしい。そんな中でふと興味を引かれて読んだその文書は、私も知っている「ハーメルンの笛吹き男」伝説成立の背景となったある歴史的な出来事を考察していた。阿部氏は本来の研究と並行してそのてその伝説を追いかけはじめ、そして、それがその後の阿部氏のユニークな中世ドイツ研究に発展していく。
夜、ベッドの中でこの本の初めあたり、「笛吹き男」伝説の背景にどんな事件があったのかという諸説を読んでいるとき、私は「あれ?」と思った。このことを私は知っている。いや、誰かに教えてもらった。誰にだっただろう。読みすすめながら中世ドイツの社会構造の部分に来たとき、誰かの声が聞こえてきた。「皆さんが都市というとき想像するものと、中世ヨーロッパの都市とはまるで違います。ローマ帝国の時代から夷狄(バーバリアン)の侵略や隣国との争いに晒されつづけてきたヨーロッパの都市は、身を守るために石造りの強固な城壁で囲まれています。都市を一歩出るとそこには荘園が広がり、農民はほとんどが貴族である荘園領主のものであるか、教会の所有する農奴でありました。都市にも、諸侯や教会に税をおさめているところがありましたが、自治体制をとっているところもありそれを自由都市といいます。・・・」だったかな。当時の身分制度、職人たちの徒弟制、理不尽な税の数々(結婚するにも、子供を産むにも、死人を埋葬するにも、窓をつくるにも税金がかけられてたとか)、教会と王の権力争い、ユニークな王たちのエピソード(バルバロッサとか)。よどみのないその声が、「ハーメルンの笛吹き男」伝説の背景となった出来事をひとつひとつ紹介してくれている。誰だったか?
私は一晩かかってやっと思い出した。それは高校のときの世界史の先生の声だ。そう、あのとき先生は一時間かけて、この阿部謹也著「ハーメルンの笛吹き男」を解説してくださった。そして、「中世植民運動」が出てくればそれについて説明し、「子供十字軍」が出てくれば
十字軍の歴史を解説し、飢饉、洪水、ペストの流行、魔女裁判に戦争・・・中世の恐るべき社会と世情とをまるで見てきたかのごとく生き生きと語ってくださった。もちろん「笛吹き男」の正体についても。
当時私たちのクラスには、授業中茶々を入れる生徒が多かったので、「で、結局のところどの説が正しいの?」と訊ねた子がいた。先生は「うーん、歴史はね、これが正しいなんて断言できるものじゃないよ。阿部さんは研究の結果このように考えたということでしかない。」とおっしゃった。「なんだ、偉い人がこれだけ研究してもわからないことがあるの?」とその子が言うと、「そりゃあ、そうです。歴史的な事件で、真相がよくわからないことはたくさんある。むしろわかっていることの方が少ないくらいです。みなさんが大きくなったら解明してください。」とにっこり笑われたのであった。私は、9.11直後にブッシュ大統領が「十字軍」という言葉を使った演説を聞いて驚愕した。十字軍の遠征といえば、多くの血みどろの虐殺と略奪を引き起こした憂うべき事件で、最後の方では子供や女性たちも何かに浮かされたように遠征に加わり、悲惨な末路をたどったのだと世界史の時間に習ったからだ。実のところ、キリスト教の歴史の中の恥ずべき汚点であるとさえ私は考えていたのだが、アメリカでは、十字軍は賞賛すべき栄光の軍隊とでも思われているのだろうか。
歴史はどういった立場から見るかでずいぶん解釈が変わってくるし、時代時代で評価が変わってしまったりもする。だからこそ、つとめて精密な資料を集め、当時の歴史背景を忠実に再現しなくてはならないのだと歴史の先生はおっしゃった。そして、阿部謹也氏もそのようなことを書いていらっしゃった。(どこにだったかは忘れた)つまるところ、歴史を学ぶ意義は、歴史の解釈というものが時代の眼に左右されるものだということをきちんと認識して、それでもなおかつできるだけ中立の立場で真実を追及しようとした先人たちの足跡を学ぶことにあるのだと思う。
そんなことを考えていた折も折だったが、世界史の履修漏れが次々と発覚し始め、私はなんだか情けなくなってしまった。
阿部謹也対談集「歴史を読む」(人文書院)の中に、先日なくなった若桑みどりさんとの対談があって、それがおもしろかった。若桑さんが「美術における死」というテーマで東大で講義したとき、まったく学生の反応がなかった。同じ講義を私大(偏差値があんまり高くないとこ)ですると大受けに受けた。この違いはなんだろうって。中世からルネサンスにかけての美術には死をテーマにした作品が多い。美女と骸骨とか、死の舞踏とか、ウジ虫にたかられた死体とか、トランジといって死体が腐っていく様を描いたような絵だとか、そういう死を見据えた作品(『死のメタモルフォーズ』)を100枚くらいスライドにしてみせたのだけど、東大では全然受けなかったそうだ。
一体どうしてだろうと思って、あれにも書きましたけれども、たまたまその後で、私と同じくらいの世代の友人である東大の先生に会ったんで、その話をしたんです。東大の学生に「死」の話をしたら、シーンとしているというか、はね返しているというか、あざ笑っているというのか・・・・・・。自分は死なない。死んだやつはばかだ。利口なエリートは死なない。まして東大に入るような者はね。1982年に東大の教養学部の1、2年生にいるようなぼくらは人生の成功者であると。彼らの価値観では、死と病は敗北なんです。それは頭が悪いのと同じぐらいにマイナーな事件なんですね。ですから、彼らは病も死も自分に関係がないと思っているんです。
私はそれは感じてはいたんです。ですけど、東大で教えている先生にきいてみたんです。東大で受けなかった。S大学へ行って受けた。どうしてだと。そしたら、「それは君、決まってるよ」って。彼らは幼稚園からあらゆる難関を突破して、ひたすらに勉強をして、いま東大教養学部に入ったばかりなんだ。まるで極楽にいるような気持ちなんだから、死ぬなんていうことがあってはならない。死ぬなんていうことは彼らの考慮の外にあるんだ。もう一つ大事なことは、彼らは子供のときから死について考える暇なんかなかったんですね。ものすごく勉強して。
ふーん。私は大学の時、一般教養の美術史の講義を取り、
マニエリスムについてレポートを書いたので若桑みどりさんの著書は何冊か読んでいる。あれを生で聴いておもしろいと思わない人なんかとはあまり口をききたくはないが、そういう人が今、日本の官僚や実業界の第一線で活躍してるんだろうなあ。
追記 読み返してみたらもっと面白い部分もあった。「自分がペストに感染したとわかったらだれに会いに行くか(うつすために)?」とか阿部さんの言う中世の世界観(ミクロコスモスとマクロコスモス)で、現代はほとんどのものが人間に統御されてしまったけども、「死」と「性」だけはいまでも統御されていない、だからこそ隠ぺいされているのだとか・・・。