読書と追憶

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ギレルモ・デル・トロ監督「パンズ・ラビリンス」

2007-11-26 22:54:06 | 映画
 マイナーな映画ばかりやっているミニシアターで「パンズ・ラビリンス」を観てきた。物語の舞台は1944年のスペイン。内戦終結後も山奥に立てこもってフランコ将軍の軍隊と戦うゲリラを制圧するため駐屯しているビダル大尉のところに母親とともに向かう少女は、途中の山道で不思議な石塚を見つける。・・・あとは公式サイトのストーリー参照。
 
 ホラーファンタジーとかいろいろな見方がされているけど、私が注目したのはこの道端の石塚とか、駐屯地のそばにある不思議な遺跡だ。きっとキリスト教が普及する以前の土着信仰で使われた場所だったのだと思われる。アイルランドのドルイド教の遺跡にちょっと似ている。もっともそれは映画の中のことで、スペインにそのような遺跡があるのかどうかは知らない。スペインといえば中世の宗教裁判が最も苛烈をきわめたところではないか。そんなものがごろごろ転がっているとは考えにくい。
 それからオフェリアがパンからもらうマンドラゴラの根。これもハリーポッターでおなじみの小道具で、魔法使いがまじないに使うものだ。ファシストの軍人である義父のもとでこんなものを使ったりするのだから危険すぎる。もう、最初からこの子は義父の世界では決して生きていけないのだということが暗示されているようだ。
 
 大尉の方も、オフェリアの母と結婚したのは単に息子が欲しかったからで、愛のためなどではないことが明白だ。オフェリアなんか眼中にない。そして大尉自身が父親から受け継いだ、ある悲痛な思想のようなものを自分の息子に継がせようとしていることが察せられて少しぞっとする。最初は「ちょっと固物そうだけど案外いい人かも」と一瞬思ったが、無実の農夫親子を何の躊躇もなく殺したときには、そんな幻想は吹っ飛んだ。生け捕りにしたゲリラを残忍なやり方で拷問にかける。どうやら拷問のエキスパートらしい。頭もすごく切れる。おそろしい奴だ。宴会で「人間は平等であるなどと間違った考えをもっているやつらに思い知らせてやらなくてはならない。」なんて演説する。この男は殺さなくちゃいけない。母親はなぜこんな男と再婚することにしたのだろう。なぜ、この男が彼女の命などどうでもよくて、ただ息子を産ませるためだけに結婚したとわからないのだろう。それが「大人の現実」ってことか?オフェリアは母親のおなかの弟に向かっておとぎ話を語り、また言い聞かせる。「産まれてくるときにお母さんを苦しめないで」。でも結局マンドラゴラを取り上げられたから母親は死んでしまうのだ。あのファシストのもとに赤ん坊を置いておけないのは明白だ。
 
 映画の中で唯一私が共感したのは下働きの女性メルセデスだ。ゲリラになった弟とその仲間を助けるため敵の陣中に入り込んでいる。勇気があると思う。この女性が危険な仕事をしているのは自由とか思想などのためではなく、ただ肉親や村の人たちへの愛情からであるのだろう。この女性だけがオフェリアをかばい、なぐさめる。共感するものがあるのだ。

 
 なぜかこの映画を見ていたら「ドイツ・青ざめた母」という昔の映画を思い出した。
 第二次大戦前後の話で、ハンスという典型的なドイツ青年とヘレイネという娘が結婚する。ハンスはナチ党員になって出征してゆき、ポーランドかどこかの村を焼き払ったり、妻にそっくりな農婦を撃ち殺したりする。その頃ヘレイネは家で自分のブラウスを縫い、丹念に刺繍をほどこしている。夫が帰省してきたときに着るためだ。ところが殺戮に疲れて殺気立っているハンスは久しぶりに会ったヘレイネに優しく接することなどできない。大事なブラウスを乱暴に引き裂く。
 
 娘が生まれ、空襲で焼け出されたためヘレイネは娘を連れて各地を転々とする。野宿しながら、また列車の連結器に乗って移動しながら、娘に童話を語って聞かせる。「青髭」の物語だ。このおそろしい話を淡々と幼い娘に語って聞かせるヘレイネの姿の美しさが印象的だ。闇市で小商いをしたりがれきの山を素手で片づけたりしているヘレイネはたくましく、どこか生き生きとしている。ところが夫が帰って来てからはだんだん生気を失ってしまう。顔面神経痛ですべての歯を抜いてしまったため、それを恥じてあまりしゃべることもなくなる。その母親を娘は悲しい思いで見ている。
 たとえよそから見て真っ当な夫であったとしても、ヘレイネにとって彼は「青髭」であったのではないかと私は思った。

 「パンズ・ラビリンス」から、一つにはファシズムの恐ろしさが読み取れるのだろうが、私はそこをちょっと補足して「母親から受け継いだもの」を貶めて破壊しようとする勢力の怖さといったようなものを感じた。「母親から受け継いだもの」って、たとえば「おとぎばなし」や「まじない」や「肉親への愛情」などのようなものだ。このようなものを「非合理的」であるとか「くだらない」とか言って消し去ろうとする圧倒的な力に対する恐怖を感じた。オフェリアの物語は現実逃避の夢なのか?私はそうは思わないのだ。きっとこころの奥深くに存在していて、それがなくては生きていけない重要なものなのだと思う。

 で、私にも子どもの頃、母親が繰り返し語ってくれた怖い話があって、ときどきそれがものすごくリアルに感じられることがあるのだけど、どんな話だったかはここでは書かない。