読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

フランツ・カフカ「掟の門」

2007-11-02 23:26:39 | 本の感想
 去年のこと、まだ高校生だった娘が夜、国語の教科書を持って私のところに来て言った。
「おかあさん、これを読んで。」
カフカの「掟の門」だ。なんのこっちゃ!
「私はね、これから寝るところなんだから、そんなものを朗読している暇ないです。」とさっさと寝室に行こうとすると、これから感想文を書かなくっちゃいけないのだと目をうるうるさせて取りすがる。「あんたって子は、なんでいつもギリギリになるまで宿題をやらないのよ!そういうのをドロ縄って言うんだよ。まったくもー!」とプンプンしているうちにだんだん乗せられて、床に座り込んで読んでしまった。

 娘の国語の先生はご自分でも小説をお書きになるとかで、なかなかユニークな課題を出される方だった。たとえば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読み、登場人物の一人を選んで、その人物の立場からホールデンのことを語った短い小説を書いてみようなんていう課題。
 「そりゃーあんた、サリーに決まってるでしょ。ガールフレンドのサリー。かわいくっておしりがキュートだけど頭空っぽで、ファッションのことと男の子のことしか考えてなくって、ホールデンに駆け落ちを持ちかけられて『ちょっと、あなた正気なの?』と言ったら罵られてカンカンになって帰っちゃったなーんてさ、簡単にキャラが想像できるじゃん。」「それ、もしかして私とキャラがかぶってるってこと?」「か、ま、まさかそんなことは言ってませんよ。ただ、そんな子ってそこいらへんにいっぱいいそうじゃないの。でも、厭なら妹のフィービーでもいいし、ゲイっぽいアントリーニ先生でもいいんじゃない?」「それは絶対いや。」「おかあさんだったら、同室のアックリー君を選ぶな。あのニキビづらでだらしがなくてハイエナみたいな声で笑うやつ。」「なんでそんな奴を選ぶの?!」「書きやすいじゃない。だって同室でしょっちゅう一緒にいるわけだし。ホールデンのやつ、とうとう退学になったか、いつかこんなことになるだろうって僕にはわかっていたさ。あいつは実のところいやな奴だ。知ってるよあいつが本心では僕を嫌っているってことくらい。そのくせそれを態度に出すのを死ぬほど恥じてやがるんだな。偽善者め。あんな神経質なやつがここでやっていけるはずがないじゃないか。僕は知らないふりをして全部見ていたのさ、ふっふっふっふ・・・」「ちょっと、それ地が出てないか?」「いやいやいや、まあ、私はそういう小姑みたいな台詞が好きなんだけど。」娘は眉をひそめて自室に引き返し、サリーで書いた課題はAをもらったらしい。

 「掟の門」というのはこんな小説だ。
 掟の門の前には門番がいる。田舎から一人の男がやって来て入れてくれと頼むが「今はだめだ」と取り合ってくれない。毎日、毎日、男はこの門の前に座り込んで頼むがどうしても入れてもらえない。この門の奥にはさらに多くの門があり、それぞれにより屈強な門番が見張っているらしい。懇願したり品物を贈ったりぶつぶつ言ったり、何年も何年も許しを得るためだけに門の前に座りつづけ、ついに寿命が尽きかけてきたとき、男は一つの問いを口にする。
「誰もが掟を求めているというのに―」
と、男は言った。
「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」  
 池内 紀編訳「カフカ短篇集」(岩波文庫)


 うーん、なんというアイロニーに満ちた小説だろう。
「ねえ、全然意味わかんない。」
「意味なんてものはね、自分で考えなさいよ。『掟』って何なのか、それは人によって解釈が違ってくると思うよ。そう、まさにそういうことを言おうとしてるんじゃないかな。うんうん。」「わかんないー。」「カフカの作品はね、不条理小説って言われていてね、不条理ってほら、夢の中でトイレに行きたいのにトイレが見つからないとか・・・」「それは、おしっこが出たいのを我慢してるだけでしょ!」「いや、だから、夢の中では説明ができない変テコなことが起こったりするでしょうが。そういうわけのわからないどうにも解決がつかない現象を不条理って言うんだって。たとえば、朝起きてみたら巨大な芋虫に変身してしまっていたとか。」「ああ、あれ。」「で、叫び声をあげても耳障りなキーキーいう声しか出なくって、家族は最初こそ大騒ぎしていたけどそのうち無視するようになって、頼りなかったお父さんは働きに出るようになって、仲がよかったはずの妹も厭な顔をするようになって、投げつけられた林檎が体にめり込んで、そのうちだんだん弱って萎びていって、最後にゴミといっしょに掃き出されて・・・・ううう、かわいそうだ。」「何それ。」「変身も読んだことないんかい!『審判』っていうのはね、何も悪いことをした憶えがないのに逮捕されて、裁判を受けなくてはいけなくなるって話。それで裁判所にいくんだけどね、変なところに迷いこんじゃって右往左往してわけがわかんないの。で、最後に何の申し開きもできずに死刑の判決が下されて、処刑されちゃうんだよ確か。カフカはユダヤ人だったから、第二次大戦前になくなってはいるけども、ナチの迫害を予見したのではないかなんて言われている。ユダヤ人は歴史上何度も迫害あっているからね。「理由もなく」「いきなり」殺されるなどという不条理がすごくリアルなことだったんだよ。それから『城』っていうのもあって、主人公の技師が何かの用事でどうしても城に行かなくちゃいけないんだけど、どうしても入れない。外の村で足止めを食らってえんえんと待ち続けるの。じっとしてるわけじゃなくて人に会ったり動き回ったりしてるんだけど、結局城のまわりをぐるぐる周るだけで決して中には入れない。」「それで?」「そういう小説」「なに?それ。『世にも奇妙な物語』に出てきそう。」「そうそう。そんな感じ。おかあさんはね、ときどきよく似た悪夢を見るよ。現実の世界だって、道理に合ったことばかりじゃないでしょ。いきなり家族が死んでしまったり、地震で家が潰れてしまったり、難病にかかってしまったり、努力しても報われなかったり・・・・。そもそも生まれてきたってこと自体が不条理なのかもしれないし。」「暗すぎ。」「そうそう。おかあさんは今、いやーなことを思い出して暗くなってきたからもう寝る。この小説については自分で考えなさい。」「えっ?」

 というわけで放っておいたのだけれど、感想文の評価はA’だったそうだ。娘にとって「掟の門」とは何だったのだろう。そして、私にとっての「掟の門」とは・・・。あの男はどうすればよかったのだろうか。中に入っても結局同じことの繰り返しになったのだろうか。選択肢があるようで実はないのではないか。よくわからない。人生にはわからないことが多い。