読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

ミドルマン

2007-11-27 23:49:02 | Weblog
 おとといの夏目房之介「マンガはなぜ面白いのか」で思い出したが、宮崎哲弥「1冊で1000冊読めるスーパー・ブックガイド」(新潮社)にはマンガ「小さなお茶会」が二度出てくる。
「夫婦をする」ことは、もはや趣味なのである。結婚も育児も人生の必須項目ではない
 猫十字社のマンガ「小さなお茶会」(完全版全四巻 白泉社文庫)は、夫婦猫の何気ない日常を軽妙に描きながら、やがて生の深淵へと読者を誘う。何度も読み返しているが、その度夫婦という趣味を充実させる知恵を授けられる。私の理想の結婚のかたちである。
 

 結婚してよかったか。熟(こな)れた既婚者として答えるならば断然YES。私は三十過ぎまで、結婚をリアルに検討したことがなかった。猫十字社「小さなお茶会」(完全版全四巻 白泉社文庫)のような夫婦関係に憧れながら、到底現実の「ものではあるまいと思い込んでいた。

 これを読んだのが「マンガはなぜ面白いのか」の後だったので思わず笑ってしまった。宮崎哲弥氏はテレビでもしょっちゅう「妻が」「妻が」と言及されるのでよほど幸せな結婚生活を送っておられるようだ。

 ところで宮台真司の本で言及されていたが、現代ではメディアからの情報がそのまんま個人に伝わるのではなく、オピニオンリーダーの意見を介して意思決定がなされ、世論が形成がされていくのだそうだ。これを「コミュニケーションの二段の流れ」という。(E.カッツ・P.F.ラザースフェル『パーソナル・インフルエンス―オピニオン・リーダーと人びとの意思決定』)この場合のオピニオンリーダーとは、昔ならば横町の御隠居さんとか村長さんとか組合長さんとか学校の先生とか、そういった実生活で直接かかわっている人たちだったのだろうけど、最近ではそんな直接的なコミュニケーションが減ってきたせいもあって、わかりにくい情報を噛み砕いてやさしく伝えてくれるニュースのキャスターやワイドショーのコメンテイター、あるいは評論家などがより重要性を増してきていると思う。そういった意味で私が注目しているのが宮崎哲弥氏だ。露出度からしても情報収集力からしてもそこいらのワイドショーのコメンテイターとは違っている。

 検索をかけると「コミュニケーション二段の流れ」で宮台ブログの該当部分が出てきた。
2003年10月17日より

 ここで宮台氏は「ミドルマン」と言っている。
 わかりやすくいえば、こうなります。専門家がなにか言っている。例えは大学の知識人が何か言っている。彼らの言うことは難しくて大衆には分かりにくい。専門家には概して万人に分かるようにしゃべる力がない。だから大衆は、専門家の言うことを理解できぬまま、単純な図式に押し流される。
 だとすれば、専門家がしゃべる難しいことを、一般大衆が聞いてもわかるように、しかも大きな誤りを含まないように、かみ砕いて、イメージ化して、伝える。そういう責務を負う存在が、ミドルマンだ、とラザースフェルトは五○年前にいっています。
 私はこのことをいつも思い出します。リサーチャーとはまさにミドルマンなのです。専門家の言う難しいことをすべて完全に理解した上で、一般大衆に分かるように、かみ砕いて、イメージ化する仕事をするのが、リサーチャーだからです。

 宮台氏は日本にはリサーチャーのような役割をする人がいないと言っている。だから一般人は生の情報を聞いても理解できず「誰が悪い」といったような単純な二項対立図式に逃げ込むのだ。

 同じところに「ディズニーランド的多層社会」についての記述があった!
 私は以前「グッド・シェパード」で宮台氏がそのような社会を目指すべきと言っているように書いてしまったが間違っていた。アホだ!宮台氏は、そのような深層が見通せない不透明な社会にならないためには、各レイヤーの全体が見通せるようなシステム、具体的にはヨーロッパのようにレイヤーごとの行政単位をおいてそれを常にオープンにしておくことが必要だと言っているのだった。「ディズニーランド?いーじゃん。エリートは勝手にやってよ。」と思っていた私はヘタレのネオコン支持者ということになるのか!
 ディズニーランド的世界は、どこがまずいのか。それをまずいと言える数少ないロジックが、正統性論なのです。ちなみに、正当性とは正しいことであり、正統性とは自発的な服従契機の存在です。正統性は正当性を含みます。じゃあ、具体的に何がまずいのか。ヨーロッパで展開しているスローライフの安全保障思想をヒントにして言えば、こうなります。
 よさげに見えるディズニーランドは、アーキテクチャーが見えないところに問題がある。見えないところで誰かが不当な権益を維持しているかもしれない。見えないところで環境に──子孫に──負荷をかけているかもしれない。見えないところで他者──南側諸国──に負荷をかけているかもしれない。見えないところに、炸裂した場合に誰も収拾できないリスクがあるかもしれない。そんなシステムは公共性を欠き、自発的に受容しがたい。
 ここから代替的なシステムが構想されます。社会システムのアーキテクチャーを、デプスが深くなりすぎないようにし、全体を見通したいと思う者たちのアクセシビリティー(接近可能性)やコネクティビティー(接触可能性)をオープンに確保し続け、いつでもオルタナティブなオプションを提案できるようにする。それがEU思想の背後にある、エネルギー安全保障・食料安全保障・IT安全保障・文化的安全保障の発想だといえます。

 
 
 20年くらい前からだけど、政治家の発言や失言にどうもテレビ番組、特にNHK特集が関係しているように思うことがときどきあった。「アメリカ人は額に汗して働く勤勉さを忘れている」だとか「イギリスを模範とした影の内閣」だとか・・・。その度に「あーあ、こういうことをNHK特集見てない人がいきなり聞いたら誤解するだろうが。」と思ったものだ。政治家自身が誤解しているようなところもあって、どうしてそう恣意的に解釈するのか首をひねったこともあった。そのころはテレビの影響といっても政治家が見るのはNHKくらいのものだったのだろうが、今では数々の討論番組に政治家が生出演したり、その常連が大臣に登用されたりするのだからテレビの影響力もすごいものだ。
 
 だけどそれにしても、実際にはほんの狭いエリアのメディア、テレビとか一部の大新聞だけがピンポンのように意見をやりとりしながら各種の世論を形成していっているように見える。だから、ここ2~3年、ろくにネットを見ていなかったが別に困らなかった。メディアのごく狭い範囲内を監視しているだけでほとんどの情報は手に入れられる。ただし、テレビを見た人がそれをどうとらえるかということに関しては、インターネットの掲示板を見るしかない。最近では、あきらかにメディアや政治家もインターネット上で反応を見ながら発言をしているようだ。だから最近では「この人がこのように言ったのはどこら辺を見て言っているのか」を考えながら真意を推し量らなくてはならない。もうちょっとしたら賢い誰かが意図的に情報操作をしたり、世論を誘導したりするようになるかもしれない。あるいは真意を隠して大衆向け宣伝で目くらましをしてくる悪徳政治家がでてくるかもしれない。そうなったら、その裏をかくことができるだろうか。私にはできないから沈黙する。
 
 ネット上で宮崎哲弥氏について検索したらこういうのが出てきたが、M2を読む限り宮崎氏はブッシュを支持したことなどいないと思う。仮にどこかでそのような発言をしていたとしても、非常にシニックな意味合いでだったと思うのだ。この件に関しても、石原・宮台対談にしても表面的な言葉だけで誤解しているようなブログが見られる。やっぱりちゃんと本を読まなくちゃ。(私も自戒をこめて)

 もう少ししたら、ネット上のカリスマブロガ―が重要なオピニオンリーダーになって選挙の結果を左右するようになる日がくるのだろうか?多分6~7年くらい後にはそうなっているだろうな。今はまだ少し早いようだけど。
 ITプラス」より「マスコミはなぜコミュニケーションの中心から消えたのか」(ガ島流ネット社会学)
ガ島通信の人だー。いやー、既存のメディアなくしてネットのコミュニケーションも成り立たないと思うんだけどなあ。