読書と追憶

主に読んだ本の備忘録です。

映画「鬼婆」(新藤兼人)

2007-11-04 02:19:36 | 映画
 三砂ちづる「オニババ化する女たち」は、結局まだ読んでいない。本の趣旨はまあ、わかるんだけど、「やっぱりいくら女性の社会進出が進んで一生独身の選択肢もアリになってきたからって、セックスや妊娠、出産という動物としての本能みたいなところは大事にしないと、エネルギーが発散できなくて、性格ねじ曲がってオニババになっちゃうのねえ。」というふうに素直に感心はできないんだなあ。これからは女も一生仕事をしていかないと食っていけなくなりそうだのに、子育て支援も十分でないし、男性の意識もまだまだ保守的だ(というよりますます保守的になってきた気がする)し、子供なんか産んでたらへろへろになって倒れてしまうんじゃないか?それをまた追い詰めるようなこと言われてもなあ。みんな後ろから銃撃されたようなイヤーな気がしたのは当然だろう、と思ったものだ。そして、柳沢元厚生労働大臣の「産む機械発言」。
 私はあのとき、テレビのニュースを聞きながら娘に、「子供、生まなくてもいいよ。」と言った。
「女性は~機械という言葉が問題なんじゃなくてね、これはね、何て言っているかっていうと、『お金がないので政府は少子化問題に対して何もできません。自助努力でやってください。』と言ってるの。そういうときに何も考えずに行動するとひどい目に合うからね。動物はね、身の安全が保障されていないときには子供が産めないの。子供よりまず自分の生存を優先するのよ。自分が生きていけない状況じゃ子供どころか結婚だってできないでしょ。もー、若年世代の低賃金だとか、保育所の不足だとか、母子家庭の貧困だとか、育児休暇後の仕事の復帰だとか、問題はいっぱいあるってわかってるのにね、『政府は安心して子育てができるよう、これこれの支援をします』じゃなくって『女性にがんばってもらわないと』ってなに?3人以上産みましょうってことか?ともかく、国が『産めよ、増やせよ』って言ってるときには生まない方がいい。」
 娘は、また変なことを言っているなという顔で「将来結婚して、産める状況で子供が欲しいと思ったら産むから」と言っていたが、「もしかして、これからは昔みたいに普通に結婚して子供を二人くらい持って家を建てて定年まで働くという生活は、ごく一部の恵まれた人たちだけのライフスタイルになるんじゃないんだろうか。」という気がして、私は悲観的になってしまった。
 柳澤元大臣を検索したらWikipediaのページが保護されていた。見てなかったけど、きっとすごい荒しがあったんだろうな。ホワイトカラー・エグゼンプションの影響?ホワイトカラー・エグゼンプションと「産めよ、増やせよ」の組み合わせですよ。国民を機械だと思っていらっしゃるんでしょうか。

 内田樹×三砂ちづる「身体知」(バジリコ株式会社)の中で内田樹氏は謡曲『安達原』を思い出したとおっしゃっている。『安達原』の鬼婆は、発現を阻害されたエロスが暴力的に発動してくるという話なのだそうだ。えっ、そうだったの?『安達原』は私も思い出しのだけど、ただ、何かの原因で村から追い出されて生活している女が人食いになって旅人を襲うという話だと思っていた。
 人里遠きこの野辺の。松風烈しく吹き荒れて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか止め申すべき
とは、「私はまだ閉経していませんから男性はお泊めできません」と、旅の僧に言っているのだそうだ。しかし、なおも強引に言われるので根負けし、
 さらば留まり給えとて。樞を開き立ち出ずる。異草も交る茅筵。うたてや今宵しきなまし。強いても宿を狩衣。
ときて、そのあとに
今宵留まるこの宿乃。主の情け深き夜の
とか、 
月もさし入る 閨の内
などという意味深な詞章が続くのだとか。
で、事が終わったあとに、女が「ここは開けてはだめよ」と言って薪を取りに行ったのに、開けて見ちゃってびっくり仰天、死屍累々。
 まったく!女が「見ないで」と言ってるんだから見るなよ!このアホ!そりゃー殺さなきゃいけません。
内田 エロスと社会性は構造的にリンクしていないといけない、ということだとおもうんですね。どれほど劇的にエロティックな経験であっても、たとえば何か月に一ぺん、何年に一ぺんというような頻度であれば、それだけではエロスを核にした安定的な社会関係は作れない。人間は恒常的な性関係のうちにビルトインされていないと、いろいろとトラブルが起きるよというのは、この種の鬼婆譚が発信している重要なメッセージだと思いますね。
『安達原』の鬼婆も性行為の数だけ言えば、そこそこやっているわけです。だけど、相手はつねに旅の男との一夜の交情に過ぎない。エロス的な対関係が構築されるわけではないから、もちろん地域社会の日常活動、共同体の活動にも鬼婆的エロスはコミットしていない。これは完全にプライベートな「密室」の出来事なわけです。エロスが「社会化」されていない。そのことの社会的な危険を告知している物語じゃないかと思うんです。エロスが社会性から解離すると当人の心身の問題だけではなくて、社会的にもネガティブな影響がある。単にエロスの問題でもないし、社会の問題でもなくて、エロス的なものと社会性をどうやってきちんとリンクするのか、それはとても重要な社会的技術なんだ。そういうことだとぼくは思います。

 ふーん、たぶん10年くらいセックスしていない私はどうなるのかな。あー、そうか、私はすでにもうオニババ化しているのかもしれない。なーんだ、それで腹が立つんだな。
 と思っている頃にレンタルビデオ店で新藤兼人監督の「鬼婆」を見つけた。

 物語は戦乱の時代。村を焼かれて芦原に隠れ住んでいる老女とその嫁。落ち武者を撲殺して武具を奪いそれを売って生活している。そこに、同じ村出身の足軽が落ちのびてきて・・・という話だ。老女と言っても昔のことだから四十歳かそこらだろうし、嫁も二十歳そこそこに違いないが、なんともはあ、凄まじく醜く見える。人間の荒々しい欲望がテーマらしい。小さな子犬が迷い込んできたのを「あらまあ、かわいい」と言うかと思っていたらそうではなく、「それ!」と飛びかかって、次のシーンでは串刺しにして火に炙った犬の姿焼を二人で貪り食らっていたのには愕然とした。そうか、犬も猫も、食べられるものは何でも食べなきゃいけないんだ。私はため息をついて、つくづく感心した。この映画のテーマとかはどうでもいいです。後半の、仏教説話か何かにある「鬼の面が取れなくなる話」もどうでもいいです。人を殺して追剥やっていて何が不倫の罪だ。鬼よりおまえの方がよっぽど怖い。でも、戦乱で家を焼かれ、息子を殺され、田畑を耕すこともできなくなった老女は、鬼にでもなって人殺しをするしか生きるすべがなかったのだろう。それを「人でなし」と罵る資格は私にはない。
 そして思った。たとえ戦乱で生活が破壊されても、そのようにして生き抜く人たちはいつの世にもいたのだろう。そうやって生き延びてきた人たちの子孫が私たちなのかもしれない。だとすると、もしもまた、世の中が同じようにめちゃめちゃになったときには、同じようにして生き延びればよいのだ。芦原や山奥に隠れ住み、鳥や獣を喰らい、人を殺して衣を剥ぐ。そのように想像するとなんだか気が楽になってきた。 なんだ、「年を取ったらどうしよう」なんて何も心配することはなかった。私はすっかり鬼婆になった気分でニンマリと笑い、その晩は久しぶりに安眠した。

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