SOHO@軽井沢

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新海三社神社 その2

2008年01月04日 15時48分20秒 | 信州の史跡
ずいぶん間が空いてしまったが、この話の続き。

拝殿の背後には中本社と西本社のやしろが並んで建っていた。



中本社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、西本社は事代主命(ことしろぬしのみこと)が祀られる。そして、この神社の主祭神であり地元の神であるはずの興波岐命(おぎはぎのみこと)はどちらに?と思って探すと、少し離れたところに建つ東本社に祀られていた。

この配置、結構不思議だ。参道からまっすぐ入っていくと諏訪大社の神紋のついた拝殿があり、真後ろは諏訪の神である建御名方命の祀られる中本社。となればこの神社の主祭神は地元の神ではなく、建御名方命ということになる。



それと、中本社と西本社の間には御魂代石という石がある。平べったい石の上に龍が刻まれた石の塔が立っている。上の塔はあとから立てられたもので、下の石は磐座(いわくら)だろう。磐座とは古代において神降ろしをした石のことだ。古代、神社はいまのように建物がなく、石や木の依代に神降ろしをして、神託を聞き、用が済んだらまたお帰り願った。神々は人間にとって利益をもたらすこともあれば、危害をもたらすこともある超越した大きな存在だった。だから、いつまでもいてもらっては危険だ、という認識があったようだ。

この石が磐座だとすれば、祭祀の中心はここだったはずだ。ここに、佐久にとっては外来の神であるはずの諏訪の神様が神社の中心に祀られているというのは、建御名方命を信仰する勢力に佐久が征服されたことを意味するのではないだろうか。

日本では征服された側の神も一緒に丁重に祀る習慣があるので、中心からずれたところにもともとこの地方で祀られていた佐久の神様のやしろを建てて祀った、ということなのかもしれない。

いま出てきた三柱の神を祀ることから新海三社神社というが、実はもう一柱、神様が祀られている。それは誉田別命(ほんだわけのみこと)で、応神天皇のこと。武士が深く信仰した八幡神社の主祭神だ。鎌倉時代に源頼朝が祀った。



東本社の背後には三重塔が建っている。昔は神仏習合時代が当たり前だったから、神社に仏教の塔が建っているのは不思議なことではなかった。長い間一緒だった神と仏が無理やり分離させられたのは、明治に入ってからだった。

江戸時代中期に起こってきた国学は、一種のナショナリズムであり、それが明治維新の原動力のひとつとなった。天皇=神の世の中に戻し、そのためには幕府という間違った存在を倒さなければならないという考えが、明治維新の思想の底辺にあった。そして、仏教は外来のものであるから、その信仰をやめ、日本古来の神道にすべてを戻さなければならないというのが、彼らの考えだった。

その考えがベースとなって、明治に排仏毀釈が起こった。国学的思想を持った人たちによって、外来勢力と見なされた仏教施設や仏像は多く破壊された。
しかし、この神社の三重塔は神社の宝庫であるとして、壊されるのを免れた。

シャープなエッジの美しい塔だ。壊されなくてよかった。
16世紀の建立と考えられている。



下から見上げると、初重の垂木は放射状に伸びているのに対して、二重目と三重目のは縦横に取り付けられていることがわかる。



行ったのは11月18日で、夕日を浴びた黄葉が燃えるようだった。



そして、神楽殿に差し込む夕方の木漏れ日。言葉はいらない。