SOHO@軽井沢

仕事の話はほとんど出てきませんが、軽井沢でSOHO生活してます。

アントニン&ノエミ・レーモンド展

2008年07月04日 17時39分39秒 | 建物探訪
例によってとっくに終わってしまっているのだが、高崎市美術館でやっていた「アントニン&ノエミ・レーモンド展」を5月の終わりに見に行った。

建築家アントニン・レーモンドの作品とその奥さんノエミの家具や布が展示されていた。
この展示の面白いのは第2会場が高崎哲学堂、第3会場が群馬音楽センターとなっていることだ。高崎哲学堂はレーモンドの自邸を引き写して井上房一郎が自邸兼事務所として建てた建物。群馬音楽センターはアントニン・レーモンドその人が設計した建物で、いずれもレーモンドに関わりがある建物。
各地を巡回したこの展示だが、実際の建物が揃っている高崎でやるのが一番ふさわしい。

以前は「ウェグナーに座ろう」展で訪れた高崎哲学堂だったが、今回久々に再訪した。



雨が降っていた前回とは少し趣が違う感じがする。



潔いくらいに長い直線が引き締まった表情を見せる。



チェコ生まれの建築家でありながら、日本のスタイルを見事に取り入れていて、ちょっと不思議な感じもする。丸太で挟み込んだ柱などは、レーモンドスタイルと呼ばれる独特のものだ。



窓から見える景色もついうっとりと見とれてしまう。
ここもちょっと角度を変えて見上げると武骨で不愉快なコンクリートのマンションが目に入ってしまうのだけど。

隣県でありながら長野とは段違いに安いガソリンを帰りに忘れずに入れてきたのはもちろんのことである。

武相荘

2008年04月18日 21時39分34秒 | 建物探訪
町田の武相荘。ずっと前から見てみたいと思っていたところだ。
白州次郎・正子夫妻が住んだ家。食料が無くなるかもしれないと戦争が激しくなる前に農地の多い町田に古い農家を買い求めて引っ越した家だ。
最近では白州次郎の方が知られているかもしれないが、私にとっては白州正子の家という思いが強い。
かつて『十一面観音巡礼』『かくれ里』などを読み、人里離れた集落を訪れては、その中に埋もれてしまった古い習俗を掘り出し、その意味を問い、日本の文化の源を探し出す姿に感銘を受けたものだった。
そして青山二郎や小林秀雄らから骨董の手ほどきを厳しく受けた審美眼は一流のものがある。その本物の美意識を実際にこの目で確かめてみたいと思っていたのだ。




坂道を上って行くと、丘の中腹にあるこの家の門が見えてきた。
右下には臼の上に「しんぶん」と手で書かれた板が乗せられていてほほ笑ましい気持ちになる。



訪れた3月初めのこの日、門をくぐると紅梅が咲いていた。



古い農家を住みやすいように現代風に改造していった。
残念ながら内部は撮影禁止で室内の写真はないが、古いいいものがたくさん置かれていた。



蚕網を壁に垂らして花を生けたり、上の写真のようにロウソク立てを花生けとして使ったりした。普通の人にとっては単なる道具に過ぎないものが、正子さんにとって美の対象となった。子供の頃から本物に触れ、そして本物を知る周囲の人たちから鍛えられたことで、獲得した能力なのだろう。



門の「しんぶん」と同じ筆跡で「うへの納屋」。
この階段上に納屋があった。



美しいたたずまいの家だ。



次郎氏は車好きとして知られ、英国留学中にはベントレーやブガッティを乗り回し、晩年はポルシェ911Sに乗っていた。
軽井沢にも別荘があり、また軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事も務めた。
まだ高速道路が通っていない時代のことだから碓氷峠をポルシェを駆って、軽井沢を往復したことだろう。
軽井沢の住所は便せんにも印刷されていた。



庭に石仏を置いたのは正子さんだろう。



ここを「鈴鹿峠」と名付けた。石まで立てる凝りようだ。



「鈴鹿峠」もいよいよ峻険な峠にさしかかる。



そして一周して元の場所へ。
整然と並ぶ四角い石のリズム感が心地いい。
居心地の良さに気がつけばすっかり日が傾く時間となっていた。

江戸東京たてもの園(2)

2008年03月29日 20時38分24秒 | 建物探訪


港区白金にあった小寺醤油店の店頭。
酒瓶やら果物の缶詰(昔はご馳走だった~)が並んでいる。



壁には昔のポスター。
紙が新しそうなので、移築時に貼ってあったものではないと思うが。



レジスター。
気安く「レジ」なんて呼べない雰囲気。やはり「レジスター」でないと。



神棚もちゃんと祀ってある。



足立区千住元町にあった子宝湯。
てりむくりの重々しい唐破風が玄関に付く。



脱衣所は格天井。



銭湯には付き物のはかり。



ペンキ絵は当然富士山。



その下にはお店の宣伝。



台東区下谷の言問通り沿いにあったという居酒屋・鍵屋。
この屋号からすると、のれんの奥にいる主人は女将じゃなくておやじか。



おい、おやじ。一本付けてくれぃ。

他にもいろいろな家があったが、前日、林芙美子邸で興奮して写真を撮りまくったためにデジカメが途中でバッテリ切れとなってしまった。たった1軒の家だというのに140枚も撮っていた。
前川国男や堀口捨己と言った建築家の家もあったが、それらを撮ってくることができなかったのが残念無念。
閉園時間となり、追い出されるように公園をあとにした。にせものの作り物を寄せ集めた変なテーマパークよりもよほど面白い。ここにあるのは全部本物だ。ここだけでまる一日は充分愉しめた。

江戸東京たてもの園

江戸東京たてもの園

江戸東京たてもの園(1)

2008年03月27日 19時16分01秒 | 建物探訪
林芙美子邸に行った翌日、今度は小金井公園内にある江戸東京たてもの園に行ってみた。ここも東京に住んでいる頃から行ってみたいと思っていた場所だったのだが、行かないうちに軽井沢に引っ越してしまった。

そんな話はさておき、小金井公園はJR武蔵小金井駅からバスに乗って5分のところにある。公園内を歩いて5分ほど歩くとたてもの園があった。
園内には各地から移築された建物が20数軒建てられている。



港区赤坂にあった高橋是清邸。
茶房になっていて、ここで一休みができるようになっている。
是清は2.26事件で青年将校によって自宅で暗殺されたが、それがこの家だ。

総栂普請という材料には贅を凝らした家だが、室内はいたって質素な雰囲気で、是清さんの人柄を感じさせる家となっている。



窓の桟は細くて上品な感じ。
そして、ガラスは昔のゆがみが入ったもの。写真でも外の風景がゆがんでいるのがわかるだろうか。



縁側のカド部分も明るい光が入ってくる。



東の一角には東京の下町の建物が集められていた。
古い農家の建物も数軒建っているが、この下町エリアの方が自分にとっては懐かしい感じがして面白かった。



都電も展示されている。



看板にあるのは「ナハ」ではなくて、「ハナ」。花屋だ。



屋上には洗濯物も忠実に(?)再現されていた。



路地裏だってちゃんとあるのだ。
もちろん布団やら洗濯物やらが干してある。



文房具屋の店内。
建物だけでなくその中身もそっくり移してあるのが面白い。

(続く)


林芙美子邸(4)

2008年03月26日 21時01分34秒 | 建物探訪
林芙美子邸の最後は庭。
かつてこの庭のほとんどは孟宗竹で蔽われていたそうだ。
いまは竹のほとんどは刈られているので、どこまでが当時の面影を残すものなのかはわからないが、現在の庭も気持ちのいいものであることは間違いない。



庭を横切る敷石は心地良い曲線を描いている。



仏の像の彫られた石龕塔も置かれる。



石仏もさりげなく置かれていて、鄙びた雰囲気がある。



敷石もさまざまな形のものが使われている。



つくばいには手作りらしいひしゃくが添えられ、落ちた椿の花びらを受けていた。

林芙美子記念館

(林芙美子邸おしまい)

林芙美子邸(3)

2008年03月19日 17時55分13秒 | 建物探訪
そして、この家は壁や天井、床などの素材にもいちいち凝っている。



浴室の天井。
細い竹は夏なら涼しげだし、冬なら暖かく見えそう。



茶の間の縁側カドの天井。



同じところの床。
木の貼り方がお茶目。



確か書斎部分の天井。
外に行くにつれて角度が付けられている。
そして、それぞれ素材も変えている。



こういう天井も。



書斎の北側にある縁側部分を外から見たところ。
障子が縁側の外側上部に貼られている。

(もうちょっと続く)

林芙美子邸(2)

2008年03月14日 20時54分43秒 | 建物探訪
続いて林芙美子邸室内の写真を。
室内、と言っても部屋には入れないので、いずれも外からの写真。



住居棟の玄関。
大きな段差が目立つ。上がってすぐのところが畳。
編集者はここから上がって右の間に通されたという。
写真に写っていないが左側にも上がり框があって、こちらから縁側の見える茶の間に直接行けるようになっている。



玄関を上がって右側の部屋。
編集者が原稿の出来上がりを待った部屋だという。



上と同じ部屋。床面と同じ高さの窓からは夏ならば涼しい風が入ってきそうだ。



上の窓を外から見たところ。



玄関を上がって左側の先にある茶の間。縁側があって、庭がよく見える。



上の茶の間を外から見たところ。
大きな開口部から縁側に光が差し込む。



当初、芙美子の書斎になる予定だったアトリエ棟側の部屋。
明るすぎるので書斎に使うのをやめたのだという。



この部屋を庭側から見る。



この部屋から2軒の家の間にある木を眺める。



当初納戸として作られた部屋だったが、芙美子はこの部屋を書斎に使った。
程よい広さが仕事をするのにちょうど良さそうだ。
雪見障子を上げた窓から庭の景色が良く見える。

林芙美子邸(1)

2008年03月12日 22時03分22秒 | 建物探訪
『放浪記』や『浮雲』で知られる林芙美子だが、その著書を読んだ事はなくどんな話を書く人なのかはよく知らない。ただ、自宅を建てるにあたって200冊の建築書を読み、大工を京都に見物に連れて行くなど、自ら建物の研究をして、こだわりの家を建てた人だということは知っていた。
その家は今も「林芙美子記念館」として公開されている。
その話を聞いたのはもうずいぶん前のことで、ずっと行ってみたいと思っていた。
しかし、行ってみたいと思う場所が近くにあるとなかなか行かないもので、そこに行ったのは東京を去って1年以上が経った今年の2月、東京にも雪が降った翌日のことだった。

土曜日の昼下がりに新宿駅から西武新宿線に乗り込む。がらがらの室内の床には冬の低い日差しが長い影を作っていた。最寄り駅の中井駅で下車する。初めて降りる駅だ。大きなマンションがいくつか建てられているものの駅前には昔の東京を思い起こさせる程よい大きさの商店街があり、商店街を抜けると静かな古い住宅街だ。

駅を降りて山手通りの下をくぐると右手に見える道はみな坂道だ。
順番に一の坂、二の坂と名前が付けられていて、林芙美子邸は四の坂沿いにある。



四の坂沿いに開いた玄関。ただし今はここからは入れない。



建物は芙美子名義の住居棟と画家であった夫名義のアトリエ棟の2つからなる。
受付を済ませて入っていくと、最初にこの2つの建物の間を通っていく。
正面に見えるのが芙美子が好きだったというザクロの木。



ザクロの木付近で振り返って撮ったのが上の写真。



そのザクロの木付近から生活棟側を見る。
山口文象設計のこの家はモダンな数寄屋造り風な面と芙美子の好みらしい民家風の印象を合わせ持っている。



芙美子の母が使っていたという住居棟の奥の小間。屋根が民家風。



敷地の裏手は斜面になっていて、散策のために登ることができ、家の裏手に紅白の梅が並んで植えられているようすを上から見下ろすことができた。
雪に覆われていた2月の軽井沢だったが、東京はもう梅が咲いていた。

(続く)

林芙美子記念館

小さな森の家

2008年01月21日 19時18分42秒 | 建物探訪
吉村順三という建築家が建てた小さな山荘が軽井沢にはある。
この家は、吉村みずから、写真にコメントを付けつつ解説を書いた本に掲載されている。

『小さな森の家 軽井沢山荘物語』

この本を読んだのは軽井沢に移るずいぶん前のことだった。そして移住先に軽井沢を決めた理由の数%はこの本によると思う。

この家はどこにあるのだろうと、時々思い出すことはあったが、改めて調べてみようとも思わず、引っ越してからも見に行く事はなかった。

しかし、先日、あらためてこの本を開いてみると、場所のヒントは本の中に書かれていた。

かなり寒くなってきた去年の12月の上旬のよく晴れた日に、探しに出かけた。
そしてその家は旧軽井沢銀座を抜け、矢ケ崎川脇の道を少し遡っていくとあっさりと見つかった。

カーブのある坂道のアプローチがあり、その先にはコンクリートで固めた1階部分の上に木造の2階部分が乗る、あの写真で見た家が建っていた。

本の写真はもっぱら新緑に囲まれているが、冬枯れのこの季節に見るこの家も美しい。

手前の傾斜のあるアプローチの地形に合わせたという傾斜を持つ片流れの屋根も写真のままだった。屋根には囲いのある露台が乗っている。この家は屋上にも上がれるようになっているのだ。

ただし、アプローチ手前ところには鎖が張ってあり、中には入れないようになっていた。鎖を乗り越えて入るのは簡単だが、それでは不法侵入になってしまうので、そこから、憧れの家を遠目に眺めるだけで我慢した。
シンプルな形状なのに、わくわくする気持ちよさ。
そして、家の中から見る外の木々の景色はどんなだろう。

写真も撮ったが、個人の家なのでここには載せない。

あとでこの家を知るひとから、もうひとつ先の道を入れば、この家を背後から見る事ができたと聞いたが、そのときは知らなかったので、そこで引き返した。
また今度見に行ってみよう。近いんだし。

三五荘

2007年11月19日 21時28分35秒 | 建物探訪
軽井沢の南ケ丘の南ケ丘倶楽部内に三五荘という古い建物がある。江戸時代末期に甲州に建てられた民家をこの地に移築したもので、1935年に移築されたので三五荘と呼ばれる。

この建物の存在を知ったのは今年の夏ごろに入った1枚の新聞の折り込みチラシによってだった。面白そうだと思って取っておいたのだが、先々週の土曜日の雨の中、そのチラシのひどくあいまいな地図を頼りに三五荘を目指して出かけた。

南ケ丘は国道18号と18号バイパスに挟まれた高級別荘地で、この2つの道路を行き来するために南ケ丘を貫通する南北の幹線道路を通った事は何度もあるが、別荘地内に入り込んだのは今回が初めてだ。道はまっすぐなのだが、南北の道路とは直角に交わっていないため、方向感覚を失いやすく、また地図があいまいなためにずいぶん迷った。何度もぐるぐると廻って、もう諦めて帰ろうかと思ったときにようやく見つけた。南ケ丘は軽井沢の世田谷か!(注)



三五荘外観。一見すると2階建ての建物に見える。



敗戦の1年前には当時の首相の近衛文麿氏と首相秘書官だった細川護貞氏が来ている。



2階に上がると吹き抜けのロビーのような空間があった。



見上げると天井は張られていず、梁がむき出しに。



室内側の壁には円窓が穿たれている。



階段を上がれば3階だ。



壁の丈夫には格子の窓があり、外からあかりが差し込む。



太い柱は荒く削られて力強い印象。



この時期、雨の日に車で走り回るとボディはカラマツの細い葉だらけになってしまう。

(注)
世田谷とは東京都世田谷区のこと。このあたりはかつて田んぼが広がっていた地域で、曲がりくねったあぜ道そのままのような道路が多く、また住宅街であるため、似たような景色が延々と続くため、幹線道路から1つ中に入ると途端に方向感覚を失い、道に迷いやすいことで知られている。
かつて、この世田谷の道路をテーマにして、タクシードライバーが世田谷に迷い込んで抜け出られなくなるというドラマまで作られたほどだ。(タイトルは忘れたが確かにこの目で見た)
今はカーナビが普及したため、世田谷で迷う人は少ないかも知れないが、カーナビのない我が車では今でも道に迷う事は必定であろう。

三五荘