SOHO@軽井沢

仕事の話はほとんど出てきませんが、軽井沢でSOHO生活してます。

龍岡城の桜

2009年04月21日 20時53分44秒 | 信州の史跡
以前、龍岡城に行ったときにここが秘かな桜の名所であることを知り、今度は春に来てみたいと思っていた。



小諸の御影神社から、かすかな記憶を辿って車を走らせてみると、予想したとおりの見事な桜がいままさに満開に咲いていた。




はらはらと舞い散る桜の姿がたまらなく好きなのだが、まだこの日はそこまではいっていない。



夕日を浴びて咲く桜。



一眼レフを出動させるべきだったと、ちょっと後悔した。
これはコンパクトデジカメで撮ったもの。



古い日本の建物と桜は良く似合うと思う。



お堀の水にも映える。



夕方だったからなのか、人はあまりおらず、のんびりできる。



もしかして昼はそれなりに混むのだろうか。



日も傾いてきたし、そろそろ帰りませうか。

C56

2008年01月18日 21時43分03秒 | 信州の史跡
旧中込学校の隣にC56が展示してあった。
小海線で走っていた車両らしい。



細身の胴体が可愛らしい。



三菱重工業のプレートが取り付けられている。
調べてみると101の車両は1937年に製造されている。
7月に蘆溝橋事件が起こり、そして12月には南京城陥落と日中両軍が激しく衝突し、長い戦争に突入していった年だ。



隣には客車が置かれていた。
外のフェンス越しに見るだけで、中には入れないのが残念。



線路の分岐器部分も敷かれていた。



そして、冬の青空に映えて信号機が立っていた。

佐久・旧中込学校(つづき)

2008年01月15日 19時04分07秒 | 信州の史跡
入り口を入った廊下の左側が音楽室。



オルガンが並んでいた。
「山葉オルガンの保険證」も展示されていた。保険證とは今で言う保証書か。



オルガンのつまみの部分のアップ。
何だかわからないが、かなり本格的。



教室。



2階に登る階段。
昔の日本家屋同様にかなり急だった。



実際に使われた教科書も展示されていた。
学業をしている、という感じの本格的な内容。



『中等小学作文大全』
「金子借用の證」とか「田畑質入れの證」とか、実用的な作文例が並んでいるのは、ちょっと驚き。



「志を立てよ」
いまの日本でもこういう教育をすればいいのに、と思う。
サラリーマンの大量生産所として小人物ばかりを作り上げている今の学校というところ。小学生として通っている頃から疑問に思っていたがね。

佐久・旧中込学校

2008年01月14日 16時42分32秒 | 信州の史跡
12月の三連休に雪が降った翌日、佐久の旧中込学校を見に行った。
佐久に映画を見に行き、始まるまでの時間潰しのつもりであまり期待しないで行ったのだったが、これが結構面白くて大いに「メートル上がった」(注)のだった。

(注)
昭和の中頃に使われていた言葉で、今風に言うと「テンション上がった」と言い換えられるだろう。このとき見に行った映画が『ALWAYS 続・三丁目の夕日』で、この中でも使われていた。現役で使った世代ではないが、面白い言い回しなので、この際、流行らせてやろうとたくらんでいるのでR。(笑)




中込学校は明治7年、村民協議の上で学校を新築する事を決め、アメリカに留学後、建築等を研究して帰国した下中込村出身の市川代次郎という人に依頼して、洋式学校を建築した。



建築費用のほとんどは村内からの寄付金でまかなったという。
明治になり、新しいものがどんどん入ってきた時代、教育こそが新しい国造りの礎だと考えていた、当時の人たちの教育への熱意が伝わってくる。



八角の塔の上には方角を示す漢字が取り付けられている。
この塔は太鼓楼と呼ばれ、時を告げる音を響かせた。



造ったのは地元の大工。自分たちが見た事もない建物をおそらく面食らいながら造った事だろう。
正面入口には西洋風のバルコニーが取り付けられている。



裏に回れば和風の屋根。
何度かの改修を受けているようなので最初から付いていたものかはよくわからない。



中に入ると廊下奥にステンドグラスがあった。



そして、2階の奥にも。
この建物はこの地域の人たちにとっての誇りだっただろう。



ステンドグラス越しに浅間山が見える。



どれだけの子供たちがこの学校で学び、この廊下で遊んだことだろうか。

(つづく)

重要文化財国史跡旧中込学校


新海三社神社 その2

2008年01月04日 15時48分20秒 | 信州の史跡
ずいぶん間が空いてしまったが、この話の続き。

拝殿の背後には中本社と西本社のやしろが並んで建っていた。



中本社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、西本社は事代主命(ことしろぬしのみこと)が祀られる。そして、この神社の主祭神であり地元の神であるはずの興波岐命(おぎはぎのみこと)はどちらに?と思って探すと、少し離れたところに建つ東本社に祀られていた。

この配置、結構不思議だ。参道からまっすぐ入っていくと諏訪大社の神紋のついた拝殿があり、真後ろは諏訪の神である建御名方命の祀られる中本社。となればこの神社の主祭神は地元の神ではなく、建御名方命ということになる。



それと、中本社と西本社の間には御魂代石という石がある。平べったい石の上に龍が刻まれた石の塔が立っている。上の塔はあとから立てられたもので、下の石は磐座(いわくら)だろう。磐座とは古代において神降ろしをした石のことだ。古代、神社はいまのように建物がなく、石や木の依代に神降ろしをして、神託を聞き、用が済んだらまたお帰り願った。神々は人間にとって利益をもたらすこともあれば、危害をもたらすこともある超越した大きな存在だった。だから、いつまでもいてもらっては危険だ、という認識があったようだ。

この石が磐座だとすれば、祭祀の中心はここだったはずだ。ここに、佐久にとっては外来の神であるはずの諏訪の神様が神社の中心に祀られているというのは、建御名方命を信仰する勢力に佐久が征服されたことを意味するのではないだろうか。

日本では征服された側の神も一緒に丁重に祀る習慣があるので、中心からずれたところにもともとこの地方で祀られていた佐久の神様のやしろを建てて祀った、ということなのかもしれない。

いま出てきた三柱の神を祀ることから新海三社神社というが、実はもう一柱、神様が祀られている。それは誉田別命(ほんだわけのみこと)で、応神天皇のこと。武士が深く信仰した八幡神社の主祭神だ。鎌倉時代に源頼朝が祀った。



東本社の背後には三重塔が建っている。昔は神仏習合時代が当たり前だったから、神社に仏教の塔が建っているのは不思議なことではなかった。長い間一緒だった神と仏が無理やり分離させられたのは、明治に入ってからだった。

江戸時代中期に起こってきた国学は、一種のナショナリズムであり、それが明治維新の原動力のひとつとなった。天皇=神の世の中に戻し、そのためには幕府という間違った存在を倒さなければならないという考えが、明治維新の思想の底辺にあった。そして、仏教は外来のものであるから、その信仰をやめ、日本古来の神道にすべてを戻さなければならないというのが、彼らの考えだった。

その考えがベースとなって、明治に排仏毀釈が起こった。国学的思想を持った人たちによって、外来勢力と見なされた仏教施設や仏像は多く破壊された。
しかし、この神社の三重塔は神社の宝庫であるとして、壊されるのを免れた。

シャープなエッジの美しい塔だ。壊されなくてよかった。
16世紀の建立と考えられている。



下から見上げると、初重の垂木は放射状に伸びているのに対して、二重目と三重目のは縦横に取り付けられていることがわかる。



行ったのは11月18日で、夕日を浴びた黄葉が燃えるようだった。



そして、神楽殿に差し込む夕方の木漏れ日。言葉はいらない。

佐久の五稜郭

2007年12月02日 18時54分45秒 | 信州の史跡
先日、佐久の地図を眺めていたときのこと。
地図に星形の地形が描かれていることに気がついた。

龍岡城五稜郭

なんじゃこりゃあ( (C) Yusaku Matsuda )
と調べてみると、なんと佐久に五稜郭があったというのだ。
函館の五稜郭は幕末、戊辰戦争最後の舞台となり、また土方歳三終焉の地としてもよく知られているが、これは知らなかった。
佐久の五稜郭は函館のと同じ構造をしている。城の名は龍岡城という。

造ったのは三河国奥殿藩主の次男として生まれた松平乗謨(のりかた)。
新し物好きだったらしい。
この地に転封されたあと、特に戦略上の要害とも思えないこの地に、洋風の城を造った。慶応三年には竣工祝いを行っているが、実際には未完成のままで終わったようだ。

さっそく行ってみた。

これが城の全景。


お堀。
石垣は高遠藩の石工を招いて築いたという。
石は千曲川から産出される佐久石。
この角度から五角形がわかる。






城の建物は明治になってから、買い取られたり、取り壊されたりした。
この建物は御台所だったが、買い取り手が付かず、取り残され、その後学校として使われた。
その後、昭和4年に現在の城の端に移転復元された。
小学校はいまも城内にある。


いちょうの葉が校庭を埋めていた。


葉を落としたのはこの木だろう。


科野のムラ

2007年10月22日 21時50分19秒 | 信州の史跡
森将軍塚古墳から再び徒歩で降りるとそこには古墳時代のムラがあった。
長野県立歴史館の地下から発掘されたムラを復元したものだという。



縄文や弥生時代のムラを復元したものは三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡などで見たことがあるが、古墳時代のは初めて見るような気がする。



縄文や弥生の竪穴式住居だけではなく掘っ立て小屋みたいなものが出来ている。
復元と言っても地面の穴から想像したものなのだろうが。



家の中はこんな感じ。



倉庫かな。



鳥居の原形?
吉野ヶ里遺跡にもこういうように門の上に鳥形が取り付けられているものがあったが、こういう形のものが実際に出てきたのだろうか。
アジアにこういう門を集落の入り口に置いているという部族がいるということを聞いたことがあるが、それを参考にしたものだろうか。
と、復元したムラにあるこういう門を見るたびに思うのだが。。。

森将軍塚古墳

2007年10月21日 23時16分18秒 | 信州の史跡
山に登る前にこの古墳について森将軍塚古墳館で予習をした。
それによると、この古墳はいまから1600年ほど前に造られた古墳時代の前方後円墳で、「円」部の墳頂には長大な竪穴式石室があって、そこに古墳の主が埋葬されていたそうだ。主は当時の科野のクニを治めていた王と考えられている。

そして、石室には副葬品としてヒスイの勾玉、管玉、剣、矢じり、そして三角縁神獣鏡が収められていた。
三角縁神獣鏡は畿内ではよく見つかっていて珍しいものではないのだが、意外にも長野県下ではこれが唯一のものだという。

そして古墳館を出て古墳のある山を目指す。ここから有料のバスも出ているが、われわれは歩いて登ることを選択した。
登ること、およそ15分。いよいよ古墳がわれわれの前に姿を現した。



大きい。。。



前方後円墳の「方」部に登る。
周囲は葺石が敷かれ、円筒埴輪が回りを取り囲む。
復元したもので、ディズニーランドみたいなニセモノっぽい感じがするけど、ここに前方後円墳があったのは紛れもない事実なのだ。



「円」部に登り、「方」部を振り返る。
古墳の上に乗るのは初めて。いや、もともとは古墳だったところが神社となったようなところに登ったことはあるが、完全な古墳の上は初めてだ。
お墓の上なのにいいんだろうか、という気がする。



そして千曲市を見下ろす。
国見をして民の家から煙が立ち上るのを見る大王になった気分だ。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ島大和の国は(万葉集)

いや、ここは香久山ではなかったし、自分は大王でもなかった。



古墳の全景はこんな感じ。

(もうちょっと続く)