SOHO@軽井沢

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群馬・保渡田古墳群

2009年12月30日 21時06分50秒 | 群馬の史跡
最近、奈良の纒向遺跡で卑弥呼の宮殿か?と目される遺構が発掘されたり、桜井の茶臼山古墳で石室を囲む玉垣跡が見つかり、また石室には水銀朱による赤色顔料が塗られていたことが発見されるなど考古学上の大きな発見がここのところ相次いでいる。
できることなら奈良まで行って見てきたいところだが、そうもいかず、騒ぎ出してきた古墳好きの血を鎮めるために、ひとまず近くの古墳に行くことにした。(11月下旬の話)

長野県で大型の前方後円墳といえば、森将軍塚古墳がよく知られている。上信越自動車道を更埴から軽井沢方面に走っているとちょうど正面の山の頂上に復元された古墳が見える。もちろん、古墳の上にも登ることができる。ここは以前、見に行っているので、今回は群馬の古墳を訪ねることにした。埼玉県北部から群馬県にかけてはたくさんの大型古墳がある。
そのなかでも、今年の夏に群馬県立歴史博物館で開催されていた「国宝 武人ハニワ、群馬へ帰る!」を見に行ったときに気になった保渡田古墳群に決定。
軽井沢から国道18号を走って1時間半程度だったか。かみつけの里博物館の案内看板に従って交差点を曲がると巨大な古墳が見えてきた。助手席のツレも思わず歓声を上げる。


葺石も復元された八幡塚古墳は目の覚めるような巨大な前方後円墳だった

ここには2つの古墳が復元されている。二子山古墳と八幡塚古墳だ。このうち八幡塚古墳は表面を覆っていた葺石や周囲を囲むはにわも復元されている。北には榛名山、北東には赤城山、西には妙義山とそして遠く浅間山と単独峰が望める地にある。二重の堀に囲まれるが、その内側に後円部を囲むように4つの島があるという珍しい構造をしている。


上空から見ると4つの島が後円部を取り囲んでいるのがよくわかる




前方部の南側には人物や動物の埴輪が多数並べられていた

どちらも5世紀後半に造られたものだ。古墳時代は中期で、雄略天皇の前後の時代に一致する。ちなみに、この古墳からそう遠くない所にある、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出た鉄剣に記される獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)とは雄略天皇のこととされ、こちらもやはり同時代の古墳だ。

八幡塚古墳の後円部はその下に入れるようになっていて、そこには石棺も展示されている。舟形石棺と呼ばれる石棺で、ヤマトの大豪族が使った長持形石棺に次ぐ格式なのだという。


近寄ってみるとちょっとした城郭だ


我らが浅間山も望める(写真中央の白いのが雪を被った浅間山)


円筒埴輪が古墳の周縁に並べられる

ここから1キロほど南東に行った所には上越新幹線建設に伴って発見された三ツ寺I遺跡がある。水濠に囲まれた豪族の居館として発掘当時、話題になった。保渡田古墳群に葬られているのはこの豪族の居館の主だと考えられている。残念ながら三ツ寺I遺跡は発掘後、埋め戻されているが、かみつけの里博物館に発掘されたものや復元模型などが展示されている。

八幡塚古墳からほど近いところには西光寺境内には薬師塚古墳がある。保渡田古墳群の中ではもっとも新しい。境内の小高い丘を登るとそこには出土した石棺が置かれる。この丘の頂上から西を向くとかなり削られているが前方後円墳の前方部がかつて扇型に広がっていた形がおぼろげながら見えてきた。いま立っている丘が後円部だったのだ。きれいに復元された古墳もいいが、こういう崩れかけた土の塊から古墳の形を想像するのも、その古墳が辿った長い年月を感じさせて面白いものだ。その丘の中心には赤い屋根の薬師堂があり、中を覗いてみると扉の閉まった厨子とその両脇にこぶりな十二神将が立っているのが見えた。


薬師塚古墳の後円部から前方部側を見る


二子山古墳は葺石は復元されていないが、かつてのおおまかな形が残された状態で公園のように整備されていた

すぐ隣の農産物販売所でおにぎりを買い、八幡塚古墳を眺めながら昼食として食べ、3つの古墳を巡り、さらにかみつけの里博物館で展示を見た。それほど大きな博物館ではないが、ここでずいぶん長い時間楽ませてもらった。外に出るとすっかり日は傾いていた。