SOHO@軽井沢

仕事の話はほとんど出てきませんが、軽井沢でSOHO生活してます。

発地の石仏

2009年01月05日 22時14分08秒 | 軽井沢の史跡


軽井沢・発地の風越山のふもとに石仏がまとまって置かれている場所がある。
もとは女街道沿いに点々と置かれていたものだが、盗難が多いからという理由でまとめてここに置かれたものだ。かつてはこの場所の東側に置かれていて、このあたりは地蔵ヶ原と呼ばれていたという。



地蔵ヶ原というが、実際には聖観音、十一面観音、千手観音など観音菩薩も多い。



ただ南無阿弥陀仏と書いてある石碑や二十三夜塔のものもある。



道を挟んだ反対側にも数体が置かれている。
手前は馬頭観音の石碑、奥の二体は地蔵菩薩だろう。



この石仏が置かれていた場所はこっちの方向にあったものだという。

なお、写真に草が青々と生えているのが写っているのは去年の7月に撮影したものだから。。。

女街道・発地石仏群

密蔵院

2008年11月22日 16時24分16秒 | 軽井沢の史跡
諏訪神社からそれほど遠くない場所の下発地の集落にある密蔵院。



お邪魔させてもらった。(勝手に)



立派な本堂があり



立派な鐘楼があった。



さほど広いわけではない境内にはびっしりと草花が植えられ、その間には二十三夜講の石碑などが置かれている。



おや。二宮さんとはお珍しい。



道路沿いには道祖神の石。

密蔵院

諏訪神社

2008年11月16日 18時48分29秒 | 軽井沢の史跡
前回、古墳か?と紹介した場所のすぐ近くにある諏訪神社。
諏訪大社の本拠地から近い信州は諏訪神社が多い。



さすが諏訪の神様。立派な両部鳥居が立っていた。



本殿はこのあたりの神社によくある装飾のほとんどなく屋根もまっすぐな建物。



鐘は手作り風で地域の人の愛情を感じさせる。



鳥居の隣には諏訪大社の神紋に使われる梶の木が植えられていた。



それほど広いわけではない境内には稲荷神社と



神様不明の鳥居が立っていた。



神社の前はこんなのどかな景色が広がる。

諏訪神社

古墳?Part2

2008年11月10日 22時53分29秒 | 軽井沢の史跡
以前、古墳小僧の悲しい(?)性としてこんもりと盛り上がった地形を見ると古墳か?と思ってしまうという話を書いたが、今回はその第2弾。

9月の真ん中の連休の日、自転車を駆って行ってみた。



この時期、このあたりの集落の入り口にはこういう旗が立てられる。
集落の入り口の道の両脇に石の柱が立っていて、軽井沢に越してきた頃は、何だろうかと疑問に思っていたが、こういう旗を立てるためのものらしい。



現地に到着。鳥居が立っているが、神社名が書かれているわけではない。
かつて古墳だったところが長い年月を経て、古墳だったことも忘れられてしまってもその場所が祀られ続けられているところは珍しくはない。
この土の盛り上がり方や社名のない鳥居はかなり古墳くさい感じがする。



では自転車を降りて行ってみましょう。



鳥居をくぐって、こんもりと盛り上がった土の上に上がってみると、祠が2つ置かれていた。



祠の裏に回ると四角い石のようなものが埋もれている。
立っていた石が倒れたのだとすると、ちょうど墓石の形。
見ちゃいけないものを見てしまったかな。
お騒がせしましたと、心の中で念じて、そそくさと退散することにした。

地図にない神社

2008年09月15日 17時05分57秒 | 軽井沢の史跡


熊野神社前の東に向かう道の先は古道ハンターの探索心をくすぐる緑の屋根に覆われた道だった。これは行って見なければなるまい。



緑のトンネルを抜けると鳥居があった。
地図には載っていない神社だ。



八幡神社と彫られていた。



鳥居は新しそうだが、石段は古びている。



登ると祠があった。



新しい祠の横には石が置かれている。
何かの像が彫られていたようにも見える。
あるいは何者かが石の表面に現れたかのように見えることから、神仏が姿をあらわしたとする影向石(ようごういし)かもしれない。
いずれにしてももともとはこの石を拝んでいたのではないかと思う。

そして、この神社の前の道は油井の集落を通り抜けて釜ケ淵橋に到達する。
かつての女街道のルートと(私的に)推定している道だ。

八幡神社

熊野神社前の東西の道

2008年09月07日 18時08分40秒 | 軽井沢の史跡
気がついたらずいぶん時間が経ってしまったという記事を書いてから更に1ヶ月も空いてしまった。。。

思い出してみると、女街道が熊野神社の前を通っていたのではないかと推測し、熊野神社まで行って見たのが前回の話だった。

そして今回はようやくその熊野神社前の東西の道についての話になる。

熊野神社の前に立って東西を通る道の西側(女街道入口の方向)を見たのがこの写真。



川が流れているが、地図では「西の河原川」と書かれている。
これはやはり「にしのかわらがわ」ではなく「さいのかわらがわ」と読むべきだろう。つまり、賽の河原。この世とあの世の境目だ。ここは葬送の地だった可能性がある。そしてこの川をさいのかわらと呼んだ集落にとっては、ここは集落にとっても境界の川だったのだろう。

地元の人にとっては賽の河原でも、旅人にとっては川岸の道路でもある。(ここを女街道と推測する側にとっては、ここは道路でなくてはならないのだ)

いまは道として使われてなく、ここを通るのは無理そうだったので、大きく迂回してその先に行って見た。地形が起伏して少し上がったところにあった。それが下の写真。



ここを下っていくと熊野神社がある。ちょうど人が歩ける峯のような地形が馬の背のように続いている。ここを通ったに違いない。(と勝手に推測)

熊野神社を見下ろした地点


ここから西の女街道入口側は上の写真のような開けた地形だった。

今度は、熊野神社に立って反対側の東を向いてみる。



おお。古道ハンターの探索心をくすぐるような道があるではないか。

(しつこくまだ続く)

熊野神社

2008年08月02日 17時40分34秒 | 軽井沢の史跡
気がついたら「女街道入口から釜ケ淵までのルートを推定する」を書いてからずいぶん時間が経ってしまっている。

そんなわけでここで書いた熊野神社に行った。(行ったのも6月上旬のことでずいぶん前なのだが)



表の街道から折れ曲がった田んぼの真ん中のまっすぐな道を行く。



軽井沢には珍しい杜を背負った神社だ。



石垣が積んである。
古墳小僧としてはかつてここにあったのは古墳で、そこに葺かれていた葺石の記憶がこのような石垣になった、と思いたいところだ。
実際、古墳の上が聖なる場所としていつしか神社が建てられたりすることは多い。
ここもそうかはわからないが。



奥には古そうな祠がいくつかあった。



神社の本殿から見返ると一面の田んぼ。(6月上旬の状況)



本殿脇のいまは薮になっているところに古そうな灯籠らしきものがあった。
建物は新しいが、古い歴史を持っていそうだ。女街道がこの神社の前を通っていたとするなら、この灯籠が旅人の足下を照らしていたのだろう。

熊野神社

女街道入口から釜ケ淵までのルートを推定する

2008年07月11日 20時34分47秒 | 軽井沢の史跡
前回の記事では女街道入口から入って、途中で道を失った。
その後の道はどうなるのか、気になって地図を眺めていた。女街道の説明板にはこの道は釜ケ淵を通っていると書かれていた。しかし、現在の地図には女街道から釜ケ淵に向かっている道はない。ならば、それは推定するしかないだろう。
古道沿いには寄り添うように古い神社や古跡があるものだ。地図をじっくりと見ていると、熊野神社という神社が見つかった。
しかも、不自然に断ち切られたような道がこの神社前を通っている。

そういうわけで、かつての女街道はこの神社前を通って釜ケ淵まで通っていたのではないか、と推定して引いてみたのが下の地図だ。

前回、道を見失った場所に行く前には分岐が1箇所あり、もしかしたらまっすぐ南に行くのが正解だったかもしれないとあとから思った。その分岐点に如意輪観音の石碑があり、その石の向いている方向を考えると、そうなのではないかとあとから思ったのだ。そんなわけで地図にはそのように南に降りるように線を引いてある。

次はその熊野神社の周辺を訪ねてみたい。

地図を見る

杉瓜の白い地蔵

2008年07月09日 21時03分22秒 | 軽井沢の史跡
中軽井沢北側のウチから杉瓜までは自転車で30分程度。
農協通りをツルヤの前を通って、先日紹介した烏明神の前まではほぼ下り坂。特に農協通りがゆるい坂になっているというのは自転車に乗るようになるまでは気がつかなかった。それほどにゆるやかな傾斜だ。
塵芥処理場の前の道を南下するとやがて発地川を渡るが、この周辺はこの川が削った地形によっていったん大きく下ってから、また上りになる。杉瓜まではこの上りが唯一の難所だ。
ここを上りきった杉瓜の集落の外れに地蔵らしい石仏を見つけた。



その奥にはお墓。
この地蔵は墓守でもあり、集落の守り尊でもあるということらしい。

石仏に白い布が巻かれているというのはこれまでに見た事がない。
しかも胴体全体が巻かれている。
お墓ということで死に装束の白と関係しているのだろうか。
それと地蔵と書いたが、布で巻かれているため本当に地蔵かどうかはわからない。たぶん、地蔵だろうと思うが。

杉瓜の白い石地蔵

和宮の井戸と謎の石碑

2008年07月06日 13時24分10秒 | 軽井沢の史跡
先日、こちらのブログを見ていたら、どこかで見た景色の写真が載っていた。(下の方の和宮の井戸の話)

ここ、うちの近所ではないか、とさっそく見に行った。
場所はすぐにわかった。



大きなケヤキの木の根元に石で囲った井戸があった。

この木が枝を無残に伐られた木か。。。

そして井戸。
これが幕末、皇女和宮が京都から江戸への下向で中仙道を通ったときに急遽造ったという井戸らしい。そんないわれのある井戸なのに草ぼうぼうで荒れ果てているのはどうしたことだろう。



おや?井戸の奥に石碑があるぞ。



おおっ。梵字が彫られている!
梵字とはインドの古代文字で、仏教とともに日本に入ってきた。梵字は文字なのでもちろんそれで文章を書く事もできるが、1文字で仏を象徴させることも仏教ではよく行われている。
この石碑に彫られた梵字は3文字。3体の仏がここに表されていることになる。

一番上に彫られる梵字は胎蔵界大日如来を表すアーンク。
下の右側が金剛界大日如来を表すバン。
下の左側が阿閦(あしゅく)如来を表すウーン。
(あしゅくのしゅくの文字はご利用のOSによっては正しく出ない場合もあります。門の中に人が3つ入った字です。)

仏教の一派である密教においては世界の中心は大日如来であるとし、胎蔵界と金剛界という2つの味方を通してその世界観を展開している。
下の碑文を解読すれば、なぜここに2つの大日如来と1つの阿閦如来が彫られているのかがわかるかもしれないと先日もう一度見に行って見た(写真は5月下旬)が、草がさらにぼうぼうになっていて、もはや中に入り込めなかった。今度は冬にでも見に行ってみよう。

井戸と石碑