連休五月四日夕方は、福島南郷・台宿の「鐘もみ祭」!が開かれます。
2昔前の8mmビデオ映像ですが
鐘もみ祭り映像はコチラ←クリック
4月8日追加
「塙町ビデオ」の台宿編をYOUTUBE映像←クリック
参道ビデオはこちら←クリック
2昔前の夕刊はなわ社←クリック
アト34日!栃木・茨城・福島に跨る八溝山麓の奇祭鐘もみ祭

栃木・茨城・福島の3県にマタがる八溝山は、まるで奥州エミシ蝦夷の民が生まれ故郷を捨てて上京南下するのを防ぐかの様にそびえ立つ(標高1021m)。 古代のミヤコ人は、それを恐れて八溝山の西麓に「白河の関」、海岸沿いに「勿来の関」、そして(あまり人が知らない事だが・・)東麓の・南郷に「下ノ関」を設けた。(現住所は矢祭町大字下関)
それらの関所を踏み破って西上進軍しようとしたのは戦国時代の「伊達政宗」だけカナ?と想像出来る程度で、江戸時代末期に水戸藩「天狗党」が京都へ向けて冬期行軍した悲劇は、八溝山の外側・南麓大子町を出発地としただけなので余り関係ないが、天狗等の分派・田中源三らは八溝山を越えて捕らえられ南郷の地・天領塙町で処刑された。
(「水戸天狗党・八溝遺聞」01・・八溝はヤミ闇ゾと 田中源蔵←クリック→「輪行自転車で水戸天狗党を追う・・総括編)
逆に、古代においては遠き九州海岸にまで徴兵されて消息の途絶えた「防人」がいて、彼らは八溝山東山麓を流れる久慈川にその想いを歌にしている・・・
「久慈川は 幸くあり待て 潮舟に ま梶しじ貫き 我は帰り来む」(訳:久慈川よ,清い流れのままで変わらず待っていてくれ,私は潮舟に梶をいっぱい通し,急いで帰ってこよう)
最も悲劇的な歴史は、明治維新時の薩摩長州藩と世相風潮に同調した西国諸藩による奥州征討軍の狼藉であろう・・・(涙)。 八溝山東西の両山麓を経て奥州・福島へ進軍した彼ら革命軍は、幕末混乱期の遺恨だけを動機として二本松藩の悲劇、会津藩への残虐仕打ち、を引き起こしたのだが、その後も奥州エミシ蝦夷の民を卑下する西高東低の治世が続いたので、大正時代になっても岩手出身の平民宰相原敬が「白河以北、一山100文」と読むほどに寂れた状況に置かれたのである。
悲劇的な歴史はその150年後の「FUKUSHIMA原発事故」で繰り返された。
長州宇部出身の管総理の不手際は(古代「勿来の関」を再び現実の関所としたかの様に)福島県沿岸地域への立ち入りを制限する事態を招き、加えて平成の日本人達は放射能セシユームによる食物汚染の風潮に同調して福島県人を困窮の道へ追いやるのである。
枝野官房長は防護服視察で差別した
さて、八溝山の東山麓は南郷と呼ばれる地域で、棚倉町・塙町・矢祭町で構成されるのだが、有名なのは「矢祭町における地方自治」のあり方でテレビで大々的に報道されたのは10年前、逆に昔から無名なのは塙町台宿で5月4日に開かれる奇祭「鐘もみ祭・おびんずる様」であるので、紹介しよう。
アト32日!(カ~ンカ~ンカ~ン)と連打する鐘もみ祭はデフレ脱却のトキの声

昔は300kgの鐘を尾根に沿って手前麓へ担ぎ下ろした。今は裏に車道あり。
古くて短い映像であるが(カ~ンカ~ンカ~ン)と連打される鐘の音が印象的な御祭りで、今年の連休5月4日にも同じ鐘の音が元気に南郷・台宿に鳴り響く事を期待します。
元宿場町だった南郷・台宿の「鐘もみ祭・おびんずる様」を今日まで保存維持してきたのは、米山(写真)西麓の稲沢地区の青年達である(感謝)。
重さ約300キロの釣り鐘を丸太2本にくくり付けて(カ~ンカ~ンカ~ン)と連打しながら(稲沢~旧小学校~宿場通り)を担ぎ練り歩いて、無病息災や五穀豊穣(ほうじょう)を祈るのであるが、高齢化も進んでいるので、(毎回、薬王寺住職の安全祈願のお経に守られているとは言え)身体安全に行われてほしい。
座長が上記8mmビデオを撮影した頃までは内の担ぎ手若者もそれなりに居たので、宿場通りを大きく練~り練~り歩く様は見応えがあったものだが、その後のバブル景気崩壊と不況、外国農産物の輸入拡大、円高不況、更には福島原発による放射能汚染と難事・難事が続いて住民も減少したと推測され(3年前は60名の若者が参加)、もしかしたらリヤカーに載せての練り歩きの事態もあり得るのだ。
故郷を離れた座長が勝手に期待するのは、長~く停滞した「失われた20年」から脱却するかの様な(カ~ンカ~ンカ~ン)という元気な鐘の音!! それは安部政権が(発展か?破滅?の道か知らねども・・)推進する諸政策に呼応するトキの声にも成り得るのだし、小利口に成りすぎて停滞デフレ化した団塊世代達の心を(カ~ンカ~ンカ~ン)と鼓舞するのでは?と思えるからだ。
アト29日!田山花袋も詠んだ霊峰米山は中世からの薬師信仰の地!
本年3月に座長が「鐘もみ祭」でNET検索した時はわずか4件の地方紙記事のヒットで、しかも「~~で行われました」の過去形記事なので当に「後の祭り」状態・・・今後の祭りの有り様が心配です。
この消え去るかと危惧される「鐘もみ祭」の御本尊は霊峰米山頂上に建立されてた薬師堂内に安置され、その狭い山頂の敷地内には祈願の為のお籠もり堂や小堂、南郷一帯に響き渡る鐘堂、とテンコモリ状態の聖地であったのだが、昭和39年5月3日の真昼間に参拝者の失火により全て焼失してしまった。

この尾根沿いの参道は、西麓の自動車道路完成後に寂れた。
米山薬師信仰に深い南郷人であれば、その燃え盛る火煙は天に戻るかの如くに想われたであろう・・・というのは「天からの米が降り積もって出来たのが米山となり、その山から湧き出た霊像が御本尊となった」の言い伝えがあったからだ。
そして鐘堂の鐘焼失は、ゴ~~ンと突けば「一打鐘音、当願衆生、脱三界苦、得見菩薩」の御利益が授かるという信仰を薄れさせ、直後に建てられたテレビ三局の中継塔からのタレント嬌声垂れ流しで誤魔化される御時世に成るかと思われた。

ところが昭和47年秋、地元の金沢秀夫さんらの昭和の大勧進が行われて、600万円余の善意によって白木造りの御本尊と石造りの御堂が完成して信仰が守られると同時に、米山西麓の稲沢地区の青年達によって(カ~ンカ~ンカ~ンという連打音であるが)打鐘も保存されてきたのである。
その「鐘もみ祭」が開かれる五月四日は新緑の頃で、明治の頃に南郷を訪れた文豪・田山花袋は中世からの修験道の場であった米山を下記の如く詠んでいる。
「 古てらも みえぬはかりに 米山の
木々の若葉は 茂りあひにけり 」
アト28日!米山薬師の梵鐘は揉まれ・叩かれ・転がされ・溶かされて・・・
南郷の地元民は米山山頂に登れば梵鐘を突くのが通例で、南に開かれた鐘堂に吊された鐘を梵木で大きく突けば、久慈川対岸の羽黒山や西隣に連なる八溝連山に反響して、南郷全域に鐘の音が届くかと思われる程の爽快感が味わえた。
そこで信心深い地元村人は、遠慮無く梵木を突いて貰おうと米山東麓の急斜面に梵木沢と名付けた補充用梵木の植林地を設けた。

右端が梵木沢か? 久慈川濁流と急斜面に挟まれた難所だった。
ところが明治35年に強力な台風が(米山は急峻で山頂が狭いので)鐘堂を吹き飛ばしてしまい、延宝5年1677年以来の梵鐘は梵木沢へ転がり落ちて割れてしまった。
ひび割れの出来た梵鐘を鉄の輪をもって繋いではみたものの、やはり以前の様な鐘の響きは無い・・・そこで大正6年に「大正の大勧進・・・現在価で563万円以上集め、台宿住民が5割・稲沢住民が3割・近郷住民が残りを負担した」が行われ、地元上石井の鋳造師・石川文左衛門なる者に再鋳を依頼した。
彼は従来の伝統ある梵鐘を鋳型として、麓の台宿街沿いにある薬王寺(お仮屋と呼ばれる)の庭先で作業を始めたのだが、その溶炉には伝統ある旧梵鐘破片の他に地元女性のかんざしや古銭などが祈願と共に投げ入れられたのである。
斯くして寄付金30円(5万円~)を出しての「初鐘撞き」を撞き始めとして米山山頂からの梵音が復活したものの・・・25年後には戦争資材として献納供出される事となり、再び鐘の音が途絶えてしまった。
ア~ア~このまま霊峰米山からの鐘音が消え去るのかと思われた戦後の昭和25年8月8日、驚くことだが地元有力者である古市禎美氏(塙厚生病院も作った)や金沢某・戸井田某・・・らの薬師信仰者達によって全く新しい梵鐘が製作され、その鏡面には「・・平和日本国 建設記念鐘・・」の新鐘銘が記されて昭和39年の薬師堂焼失までの14年間、霊峰米山から「薬師御利益と平和日本!」を響かせていた。
現在その鐘は麓の薬王寺境内にあるのでワザワザ山登りせずとも鐘撞き出来るのだが、近くの台宿大通りを走る大型トラックの音に負けそうなのだ。
されど5月4日夕方の「鐘もみ祭」の時は通行止めとなるので(カ~ンカ~ンカ~ン)という連打音も心地良く聞けるであろう。
アト26日!霊峰米山が御本尊で、麓台宿の薬王寺はお仮屋。・・・という訳で「山頂まで車道が出来たから楽に行けるヨ!」と霊峰米山に登ってみれば、其所には古イニシエの面影は無くて(無骨なTV放送塔とその真下に鎮座する石造御堂)があるのみ・・・何よりも南郷一帯に打ち鳴らす鐘堂・梵鐘が無いのだ。

中央が米山薬師、その裏側が稲沢、左手が台宿の街←YOUUBE映像
昔は広く展開した眺望さえも放置樹木に遮られてしまい、この霊場から発するものはテレビ電波に乗る吉本漫才のアホ笑いなのかと思うと、宗教心の乏しい座長であってもガッカリしてしまうのだ。
「だけど、麓の台宿には薬王寺という田舎にしては立派なお寺があるじゃないですか!」と言う人もいるだろうが、アソコはこの狭い山頂霊場に登れぬ人々の為に用意された出開帳の仮堂(地元民はお仮屋と呼ぶ)であって、元々は霊峰米山で修行する修験者達の借宿から始まり、江戸時代になって熱心な薬師信仰の地元民が(江戸の大勧進・寛政2年)を行って菊花の紋章入りの豪華薬師堂を造ったのだが、庫裡や客殿を無視したのは、彼らが塙町にある別寺の檀家だった為である。
(後に造営されて寺院の体裁としたが、檀家が少ない住職は昭和初期まで山頂での修行と出稼ぎ托鉢の日々だった)
更には明治革命政府の廃仏希釈令と寺社領没収令(明治4年1月)により、寺の領地13反余の半分以上を没収され残り寺領の一部も課税対象とされて廃寺如き経済状態となったのと対照的に、霊峰米山を御本尊とする信者集団は豊富な冥加金と米山領材木を運用して、当時貴重だったナタネ油を使って山頂御堂に常灯明を灯し、村民には低金利1割の貸し付けを為す一方、運用の監査役として檀徒でない村役人を選んで「信仰の自治」を維持したのである。
それらの資金は薬王寺の永続資金としても使われたが住職の自由にはならなかった。その為「米山常灯明貸付帳」の明治15年3月の貸付相殺の記述によれば、その昔63年前に借用した住職の子孫が当時の代理住職石井知永氏を経て完済した事例がある位の自主管理!! 南郷地区の薬師信仰集団の純粋な生き様を見る事が出来る。
これまでにブログしてきた「江戸寛政の大勧進、大正の大勧進、昭和戦後の2度の大勧進」を振り返ると、この南郷地区で発揮されてきた「信仰の自治」の威力を思い知ると共に、10年前から始められた矢祭町根本町長←クリックの霞ヶ関幕府に抗して「地方の自治を実践する姿」へと思いが飛ぶのである。矢祭町では町議員を日当制にしたのだから・・・。
最後に座長の小さな信仰心の表れとして、昭和55年3月に福島県で放映された「塙町ビデオ」の台宿編をYOUTUBE映像←クリックで紹介する事にした。
アト24日!米山薬師の梵鐘の音を「薬師ヤクシでなくフクシ~福祉~」と聞き違えていた平成ビト
さてさて、何故?ナゼ?斯くもココ南郷地区の人は自分の財産を米山薬師に奉納したのであろうか?

遠方左の山が羽黒山、右が九つ山、その先に弘法山 がある。
過去に遡れば前述の三大勧進の他に、寛文2年1663に真言密教・米山薬師開山の僧・宥善和尚による(江戸初期の大勧進)があり、それまで医王堂と呼ばれていた修行場を米山寺という本格的な霊場へと昇華させ、延宝5年1677には地元塙の有力者・古市重盛なる人から南郷地区3番目の鐘堂梵鐘の寄進を得ている。
(尚、米山寺の銘々は宥善和尚が修業先だった越前米山伝説に重ねたものだが、久慈川対岸には出羽羽黒山があり寛永11年1644に天宥和尚が中興の祖となり整備されていた。)
その後は江戸幕府の下請け窓口になって檀家管理をする事も無かったし、昭和初期まで葬祭業務を主とする事も無いという状態が続くという希有なる密教信仰の霊場となった。
そもそもココ東国への平安密教の布教活動は盛んに行われて、例えば天台密教・最澄自らによる北関東布教や真言密教空海の高弟らによる常陸布教、常陸~会津に至る徳一大師の布教活動、そして米山薬師開山の僧・宥善和尚、幕末期の中興の祖・如海、と続いたのである。
「薬師信仰であれば無病息災で生きられる」と信じてしまう過去の南郷人を見て「布教活動に熱心だったキリスト教宣教師に従う未開の人達と同じだダナ~・・」と平成ビトは思ったりするかもしれないが、医療福祉と人権が十分であってもウツ病や引きこもりなどのココロの病が蔓延している現実があるのだ。
昭和の中頃までは難病に苦しむ患者さんに「病気は気の持ち方で(治る?)・・・」と慰めた厚生大臣もいたのだが、戦後ビトはそれを許さずマスコミと共に非難した。
もしかしたら彼らは米山薬師の梵鐘の音を「薬師ヤクシでなくフクシ~福祉~」と聞き違えていたのかもしれない。
その米山薬師に至る旧参道の映像を入手したので次回に公開します。
アト22日!2昔前の米山薬師参道のビデオ公開しますが、過疎化した今は?
さてさて、福島南郷ビトの薬師信仰の御本尊は米山山頂にあり、そこに至る参道は南麓からの険しい山道しかなかった。
その信仰道路の道幅は9尺270cmと広さで、東麓沿いの旧水戸街道(写真)よりも広かったと古文書に記述されている。

当時(江戸時代)生活道路である公道は受益者である地元民負担が伴ったから、モッタイナイ精神を発揮して荷役馬が歩める道幅6尺180cmで良しとした旧水戸街道なのだが、それをネタに座長は「建設族ヤクニンが多額の税金を投じて高速道路を造っても野生の熊を歩ませるだけとは如何なものか?」とTVで見かけるようなカラコメント批評はしない・・・というのは、座長の実経験からも参道ビデオ映像からも想像してしまうのだが、道幅9尺の参道というのは宗教関係者の誇張表現だろうと言う事、即ち・・・薬師信仰者は「それは参道側壁に置かれた四国八十八ヶ所の本尊石仏を含めた道幅・・」と答えるだろうし、キリスト教宣教師なら「神ニ至ル道は広ク開カレテマ~ス・・」と誤魔化すだろうという事だ。
さて、今回YOUTUBE公開する20年前の映像←クリック)でも既に倒木あり雑木繁れりの旧参道だったのあるから、現在の旧参道に足を踏み入れたなら余りの荒れ様(座長は未確認)に信仰心が揺らぐ事は確実である。
それに加えて山頂の鐘堂には鐘が無くなり、放置樹木が南郷眺望を遮ってしまい、新御堂に礼拝すれば背後の巨大なテレビ塔からの強力電波をお返しとして全身に浴びている事に気がつくのだ。
・・・2年前からの原発セシューム放射能の微弱被爆も恐れずに旧参道を下ると想像してみよう。

この山道には(中世の僧侶専用の特殊巡礼所巡り、近世の一般民衆も加わった地方毎の札所巡り、江戸末期から盛んになった婦女子の参拝旅行)の足跡が残っている。
下りてまもなく仏法修行の守護神「十二天」を祭った「十二手様」があるのは山頂での修行が厳しかった事を思わせるものだし、その近くには開山の祖・宥善和尚が1685貞亨2年8月21日端座しつつ入定した窟室もあるのだから、一般民衆の信仰は益々深まったものと想像される。
更に地元婦女子による月に一度の「米山月参り」が発展して四国八十八ヶ霊所巡りの代替路となると、各自が思い思いの(札所番号の寺名を記銘した)石仏を道側に置く様になったのだが・・・20数体を数えて未完のままで終わったようだ。
アト21日!御仏像を髪ビンで丸太吊し「オビンズル様」の子供巡行
さてさて、昨日の米山参道を踏破する子供達のビデオ←クリック)を見て、5月4日の子供達の祭り・オビンズル様の事をブログせずにはいられない。
オビンズル様とは木造の仏座像で(座長のウロ覚えによれば)随分と汚れていたのは、仏様の髪を束ねて吊す如くに木綿ひもを首を巻いてそのまま丸太に吊して村内巡行するという非常に荒技的な祭りだった為だろうし、その頭を撫でると知恵の優れた子供になるという長年の慣習だったからだろう。
由来は二つ、頭を吊すと御利益があると言われる虚空蔵菩薩の変わり姿という説、あるいは病む場所を撫でると快癒するいう十六羅漢の一つの説・・・いずれにせよ吊され撫でられての難行の仏様だったが、最後は昭和39年5月の山上火災で御堂と共に焼かれてしまう難行に出会う事となった。(後日、復元され祭りも継続された)
さて、座長が子供の頃はあの険しい参道を、大人は2本の丸太で300kgの梵鐘を吊して、我ら子供らは細めの丸太でオビンズル様を吊して、麓の稲沢へ降ろし奉タテマツり、それから村内全域を巡行するのが5月初めの南郷・台宿の奇祭「鐘もみ祭・おびんずる様」であった。
毎年の行事だったのに「3年毎の奇祭」となったのは、座長ら戦後団塊世代が故郷を捨てて都会へ去ってしまい過疎化したからで、その後の団塊世代も(・・・サ~老後は便利な都会生活だ!たまには海外旅行だ!アジアで年金隠退生活だ!)と日本を捨ててしまう風潮が加速して、益々希マレなる奇祭と為りつつある現状・・・いずれ担ぎ手も老齢化してリヤカー手押しで巡行する祭りとなる運命なのか?!
それにしても嬉しかったのはオビンズル様を担いで家々を廻るとお菓子やお駄賃が貰えた事で、後から皆で分配して交換し・・・中には感謝の余り、再び米山山頂へ(遊びを兼ねて)登った子供も居たかもしれないノダ。
それから半世紀を経た来月5月4日、オビンズル様を担ぐ子供は出生減少で少ないと思われ、加えて過疎化し廃屋も目立つ内を巡っても頂けるお菓子やお駄賃はゴク僅かと思われて憐れな気分になった。
そこで突然ながらお願い事!!
皆様の中で子供が喜ぶ品々があれば、(塙町役場気付=台宿・稲沢青年会)宛へクロネコ宅配して頂ければ大変有り難い。

福島県 塙町役場 後ろは米山
〒963-5492 福島県東白川郡塙町大町3ー21
Tel 0247-43-2111 / Fax 0247-43-2116
ココ塙町の小学生に驚かされた事が数年前にあって、JR水郡線塙駅から台宿方面へブラブラと久慈川沿いの堤防道を歩いていたら、小学生と出会う度に「コンニチワ!コンニチワ!」と挨拶されるのだ。
「知らない人と話しチャ駄目ヨ!」という都会と違った地方教育だろうが、既に都会ズレしてしまった座長の頭に浮かんだのは「吉信ちゃん誘拐事件」だった。
阿武隈山麓での山村生活経験がある座長は、ココ南郷の北隣町の山村で貧しく育ち身障者になっても頑張った末の犯罪者・小原保に同情的で、OZUの謡Utatteru#60←クリック)では童謡「カラスの赤ちゃん」の替え歌の中に謡い込んでしまった。
さてさて、3年前の鐘もみ祭は(台宿・稲沢青年会=金澤貴広会長、同消防団とOB、子ども会の保護者など60名の若者)達によって無事に実行されたと福島県地方紙が伝えている。
この稲沢というは、天領塙代官所のあった煩い町並とは久慈川で隔てられており、また旧水戸街道の往来ビトに気をつかう台宿街とも違って、米山の西麓と八溝山系に挟まれた沢沿いの隠れ如き雰囲気(表通りのよりも小さい)・・・なので座長は好きであった。

そのの人達が鐘もみ祭を頑張って存続させているのだが、思い当たるのは台宿小学校の級長をズ~と続けていたクラス友達がそこに住んでいて、我ら子供らをシッカリと筋を先導していたナ~という事。そんな頑張りは台宿村事業に多大な貢献をしてきた経歴にも顕れている。
大正6年の「大正の大勧進=梵鐘再鋳事業」で3割負担をした事は4/6ブログしたが、それ以前の明治10年代からの台宿村事業(米山東麓の旧水戸街道整備、北麓から八槻・山本不動尊へ至るトンネル便道工事、台宿小学校の設立)もあったのだ。
明治時代の富国強兵策の影響で、これらの費用の一部は村民達の寄付で賄われいてて「寄付者の名誉のため、万世不朽に伝えんがため、石碑を以って、その御姓名を銘記せんとす」と事業趣意書に書いて諸事業を始めたが、事業優先の為にその石碑代が捻出出来ないまま時間が経ち、斯くして「ド~セ、国の税金で造ったのだろう!」と平成の人に思われるに至った。
(なお、米山薬師領の共有林伐採の収入が有ったので県ヤクニンから「奇特ナリ!」として木盃一個を下賜されても納得する反面、台宿小学校の設立場所を巡っては稲沢児童全員を3ヶ月休校させる実力行使に及んだ(明治36年)。
さて、年末の共同募金でもワンコイン500円しか出さない座長の子供時代は、そんな明治期整備の旧水戸街道の面影が戦後社会によって破壊される時代でもあった。
江戸時代の台宿街北端には八溝山系の激流がえぐり取った「とどろき沢」があって、通行ビトは沢を降りて「ノンノコ橋」という小橋を渡りて沢を登り対岸の高台(今は廃校となった台宿小学校)に至るのであるが、その後明治の道路整備化により暗渠式埋め立て道路となって便利になった。
座長はその沢をゴム巻き模型飛行機で沢越えしようと何回もトライしたが失敗続きで、その度に「とどろき沢」を下って回収した思い出がある。
更に旧水戸街道を北進すると米山中腹の狭い山道を歩む難所に至るのだが、アノ悪名高い福島県令の三島通庸(土木県令の呼び名)が対岸の塙町経由の県道路を新設した為、残された米山下の旧道整備は台宿民全員の負担となって苦しめた。
米山下道路改修決定書(明治21年1月26日附け)には書いてないが、競争奉仕労働の方法が数年間にわたって採られた為に個々農家の農作業は夜間に及んだのだし、加えて八槻へ至るトンネル便道工事も負担した稲沢の北野神社に「側沢洞道之碑」なる石碑が建てられたのは明治41年の遅きになったのである。
アト17日:カンカ~ンカンと鐘もみ祭をテレビ放映したら、どう聴える?
さてさて、福島・台宿の鐘もみ祭りビデオ←クリック)を御覧になった方々は・・・あの暗闇で打ち鳴らす鐘の音(カンカ~ンカン)をどのように聴くのだろうか??

(A)通常あの様な連打音は(火事発生時の半鐘の如く)異常・緊急の事態で打ち鳴らされるものだが、2年前の福島原発事故の時に鐘を連打して避難警報を出した町は無かった。
その鐘の代わりに最新の機器を駆使して警戒情報を出す筈だった国営オフサイトセンターは停電の為に瞬時に無用ガラクタ施設と化してしまったのだし、ラジオ・テレビでは政府・枝野幹事長が「安全デス!安全デス!」と強調するばかりで適切な救済活動は行われなかった。
斯くして、福島県民の生命と財産はヤクニン仕事によって損なわれる結果となり、その後2年経っても後手ゴテ後手の支援策が続いたのだから、この鐘の連打音を聴く被災者達は(やるせない無念の思いと追い立てられる様な孤立無援の後生への思い)を想起するのだろう(涙)。
(B)カンカ~ンカンの鐘の音を(カネ!カネ!カネ!)と聴ける人は脱デフレ気分高揚の折、貴重な人達である。
20年前のバブル崩壊の後は福島原発の冷温停止状態が如き経済停滞が続き、次世代を担う若者までもが弱小清貧生活に甘んじる有様となった。もはや後には引けぬドン尻の日本民族が選んだのは安部政権の積極的なインフレ景気策で札束を市場に投げ入れる選択・・・これは団塊世代特有の評論家面を捨てても実施するしかない。
福島原発の原子炉冷却水が漏洩し続けても絶えず水を供給するしかない様に(高い燃料代を外国流失させつつ)日本民族はカネを市場へ投入するしかない宿命を背負ってしまった。 ナゼか座長は衰退した江戸時代末期の「エ~ジャナイカ!エ~ジャナイカ!」の民衆運動を連想するのだ(哀)。
(C)鐘もみ祭の鐘は元々霊場・米山山頂に有って(ゴ~ンゴ~ンゴ~ン)と南郷一帯に御利益を施していたのだし、麓の薬王寺は「お仮り屋」として信仰一途の村ビトの為の寺であった。
平成の今、山頂にはテレビ塔が立って南郷一帯に吉本オチャラケ漫才番組を放送し、麓台宿の寺は普通の寺になって墓地を拡張し、斯くして「軒先貸して母屋取られる」の有様になってしまったのだが・・・致し方ナイ(嘆)。
そこで座長は、せめて鐘モミ祭りのテレビ報道位は都会テレビ局はしても良いのではと思い各局へメールしてみたのだが、もし放映された場合全国の視聴者はどの様に聴くのだろうか?
なお、塙町には全国でも珍しい地域密着型報道の夕刊はなわ(創刊昭和33年450部から始める)があるのだが、その過去の映像←クリック)を無断公開してしまうノダ。
夕刊はなわ社 〒963-5405
福島県東白川郡塙町大字塙字代官町3 電話番号 0247-44-1266
アト10日:5月連休は棚倉構造線の余震で揺れる鐘もみ祭りへ!
さてさて、上の図は座長故郷・南郷を走る棚倉構造(地殻礫断)線を示しているが、その解説←クリック)によれば、
(A)3000年前の日本列島がアジア大陸の東端に連なる山並であった事は、国産岩石が示す地磁気方向が上は現ロシア沿海州に、下は中国の東岸へと連続する事で証明されている。
それが大陸内陸部の淡水凹み・日本海の拡大によって太平洋側へ押し出されて弧状列島となったのだが、大部分の山並みが中央構造線となって主要部分となったのに、ツムジ曲がりの棚倉構造線250kmは彼らと断絶して蝦夷・東北側と連携したのである。
(B)斯くして八溝山の東麓に沿って棚倉構造線が走る結果、アノ311震災の後も「何か・・地鳴りがゴ~ゴ~として気持ち悪いし、山のカラスも減った様だ?」とかの余震話が続いている。
しかしながら「それはアジア大陸伝来の揺れで、由緒正しい余震ダ!」と考えれば幾分かココロ安らぐ事も出来るのだ・・・なにしろ東京~阪神間の沿岸一帯は太平洋の浮きカス如き島々が漂着して造られた新造成地(NEOGENE新大三紀の被覆層)に過ぎないのダカラ。
(C)非科学的な伝説として「構造線上では奇跡が起こる」との説があって、中央構造線上には鹿島神宮・諏訪大社・伊勢神宮・高野山・四国霊場があり、挙げ句の果てには御キツネ豊川稲荷まである。
そこで座長が強調したいのは、棚倉構造線上にある霊場・米山薬師である。5月4日には「鐘もみ祭り、オビンズル様」があるので御利益もあるだろうし、米山に登って地殻断層の景観を楽しむのも面白い。
注:自動車道は1車線なので混雑停滞するし、頂上は雑木繁茂で一部の景観となる。
アト08日:戦前の「競争奉仕労働」に??の平成ビトは個人主義を謳歌する。
さてさて、3回前のブログで稲沢の貢献話を書いたので(田舎の慣習として)台宿の事を書かないと座長は「村八分」扱いされるかもしれないノダ。
何シロ・・・そのブログに有るように戦前は「競争奉仕労働」してまで、の公共事業に民が参加する事が当たり前であって、事業完成後の宴会では他との比較話で盛り上がるのである。そんな状況は座長の父葬儀の時にも実感した事で「この**町会の葬儀進行は###だからナ~」という参列者の声を聞いたのだから。
戦後の個人主義下で育った平成ビトには自分の都合を捨ててまで地元社会に貢献する事も無いし、他地区より劣る事業があればヤクニンに文句を言ってやらせる事を当たり前と思うのだし、災害時であっても避難所に引き籠もってボランテイア救助ビトの活躍を見守る有様なのだ。
しかしながら、戦争中はこの競争(国家)奉仕労働の精神が裏目に出てしまった事は残念ダ。 「あの**部隊も突撃玉砕したのだから我ら###部隊も後れる事なく全員玉砕を!」となったり、海軍と陸軍が互いに競い反目した末には「大本営発表!4月7日沖縄洋上の海戦で米艦に多大な被害を与えた!」との海軍デマ成果を信じた南洋諸島の陸軍が従来の守備戦線を移動させてしまい多くの日本兵が強力な米軍艦船の餌食となったり、したのだ。
願わくば各の個性を生かした競争奉仕活動が望ましいのだが、残念ながら平成ビトには何でも平等主義も蔓延ってしまい、5月4日の「鐘もみ祭り・オビンズル様」の伝統ある祭場に川向こうの塙町若者達が四国ヨサコイ踊りで登場するというから残念な事だ。
「郷に入っては郷に従え!」の精神で祭り支援をお願いしたいものダ。
さて、台宿で目立つのは民が「お仮り屋」と呼んだ薬王寺なのだが、311震災の時は亡父の墓石倒壊も心配だったが寺院裏側まで造成した新墓地壁が倒壊して1790年創建の建物が壊れるのでは?と心配した。
二番目は会津大内宿如き雰囲気のある町並み(ビデオ参照)だが、その広い街道の延長した所に旧台宿小学校と御本尊米山薬師が見えるという雰囲気が良い。記録によれば宿場運営は住民の大きな負担だったそうで、ヤクニン公用の料金が民間の1/3、江戸時代後半の人口減の影響で他村からの出役人夫も必要、備馬27頭の世話、等の難問アリで奉仕労働の日々だったようだ。

三番目はその街道で南へ振り返った先にある「一里塚」で、見渡すと弘法山と南郷の南半分が見えるし、そこで直角に西に折れる一本道の街道の遠景は八溝山系(西山と総称した)となるのだ。
アト06日:NHK親の看取りvs「ピシャリ」叩いて引導した座長
さてさて、NHKテレビ24日ドQ番組「親の看取り」を見て、南郷・米山の山頂で地元民に見守られながら入定した真言密教僧・宥善の事をブログせずには!!・・の気分になる。

(A)貞亨二年1685真夏の八月二一日、米山薬師中興の祖とされた密教修行僧・宥善が頂上近く窟室に端座し入滅した。 その入滅跡には平板な大石と苔むした石碑があるというのだが、いずれ入棺するであろう座長が思い当たる場所はとても狭くて、信仰深き地元民が大勢参集して見届けられる場所ではない。
彼は奥州出羽・羽黒山信仰の中興の祖である天宥を師として修行し、南郷・米山を羽黒山の如き修行場にしようとして布教活動に邁進した結果、頂上に至る広き参道と両側の杉並木、頂上には薬師尊を本尊とする建物(米山寺→医王院→薬王寺→麓の薬王寺と変わる)と梵鐘を造る程の尊敬を地元民から得たのである。
その信仰主体の伝統は歴代後継者にも引き継がれて昭和初期まで檀家無き貧乏寺の状態が続いたのだが、もしも開祖・宥善が羽黒山・即身仏如き成仏を願ったならば、台宿ビトは「鐘もみ祭り」の宥善梵鐘の代わりに「湯殿山の即身仏」如き宥善即身仏様を担いで祭りとしたかもしれない。
(B)米山薬師の祖・宥善が自分の意志で食を断ち入定してから335年後の4月に放映されたNHKテレビ「親の看取り・・」という番組では、医療技術の発達によって家族、医者、本人が三スクミ状態となり介護時間と介護費用をイタズラに費やす有様を写している。
其所には宗教死生観による看取りは無く、代わりに人権法律の見張りが尊重されるのである。昔ならば医者が家庭事情を配慮して安楽死を施す事もあったろうけれども、今の世は見知らぬ世間がガミガミと文句を言う時代で、森鴎外「高瀬船」如き人情も無視されがちだし、本人の終末意志であってもボケを理由に拒否される恐れもある。
(C)さて、90過ぎの父が突然倒れて病院へ緊急搬送したのは偶々田舎に戻っていた座長本人、その後の診断で「延命処置はどうしますか?」と聞かれて「不要です」と答えたのは座長ら子供全員(一人位は是非~と涙声が欲しかった)、そして家族交代による介護10日目は座長が担当だったが、結果的に父親に引導を渡して~自己意識で往生させたのは座長だった。
その夜の父は呼吸器の具合に不満があったのか?やたらマスクを外そうとするするので座長は思わず額を「ピシャリ」と叩いてしまった(親に暴力は初めて)。 朝になって兄と交代して家に帰った3時間後に亡くなったのであるが、その時に思い出したのは座長一族の長オサである「釜藤のオバサン」から聞いた「ピシャリ」話である。
それは更に遡る事10数年前、母が脳溢血で倒れて病院へ長期入院し父が長期介護の日々となってしまったのだが、ある日「どうしても家に帰りたい!」という我ガママ母を父が「ピシャリ」と叩いたそうである。その後に母が亡くなると父はその「ピシャリ」を悔やんでいたそうで・・・斯くして、子供である座長から「ピシャリ」と叩かれて往生を決意した父親だった気がする(後悔)。
鐘もみ祭りのエピローグ:オリビアニュートンジョン、八朔祭りで「色薬師」
さてさて、南郷台宿の「鐘もみ祭り・オビンズル様」も無事終わった様で、座長の祭り応援も今日のエピローグ風ブログで御仕舞いです。 (鐘もみ祭りに帰れなかった座長は、ビデオで記録された方のYOUTUBE投稿を期待してます!)
(A)さてさて、今から30数年前の話だが営業軽4輪車のカーラジオから流れてきた唄に驚いた事がある。 まさか?!あのアメリカの歌手オリビア・ニュートンジョンが(座長田舎の「鐘もみ祭り」を知る筈が無いのに!)唄の出ダシが「カネカネカネ・・・・・」の鐘音連打で始まるポップ歌を唄っているのだ。
その楽曲名が判らないまま終了してしまったが、外人の中にも単調な鐘の連打音に興味を抱く人が居るものダナ~・・と座長は鐘もみ祭りを再評価したものだった。今回改めてネット検索で100曲余りを聴いてみたが該当する歌が無いので、あれは幻聴なのかも!?
(B)1685年真夏に米山頂上の窟室で入滅した薬師中興の祖・宥善を喜ばせたものは真夏の八朔盆踊り祭りで、遠くは八溝山を越えて大子、馬頭、黒羽町からも「梵鐘銘・アリの列をなすが如く・・」に信者が集まり、あの広い道路に沿って夜明けまで踊り明かすという民俗行事である。
実は戦前までは「色薬師!」と揶揄される男女間の交流の場でもあって、八朔盆踊りの唄に「八溝かけ越し、黒羽お昼、晩の泊りは大田原~」なる道行文句がある位であった。
(C)その八溝山を越えて投降した水戸天狗党・田中源蔵は南郷全域に大騒動を引き起こして、この田舎の地も日本歴史と結びついてた事を示した(1864元治元年)。それに関連した書きかけブログがあるので掲載する。

久慈川対岸にある
孤高の山城・羽黒山城←クリック(裏が塙町)
・・・・鐘もみ祭りのブログ開始から1月経って「ア~鐘もみ祭りまで4日前だな~→ヨッカマエ→夜明け前・・・」と座長の考えが飛躍してしまい、島崎藤村著「夜明け前」の舞台である信州観光名所嬬恋宿場に思い至った。
アチラは江戸と京阪を結ぶ幹線街道故に(往来する人=歴史の動き)とも見える宿場街だが、コチラ台宿は奥州南端の寂れた田舎宿場街なので比較するのも奥ガマしいが「鐘もみ祭り」を盛り上げる為に敢えて共通する歴史事実を座長流に掘り起こしてみる。
(AA)徳川時代末期にコチラ南郷地区で起きた事件として、東側の阿武隈山系の沿岸に1824文政7年5月28日多数の英国人が大津港に上陸してきた為に当地サムライ達が山越えし警備をした事件があったし、反対の西側八溝山系からは1864元治元年水戸天狗党田中源蔵が投降して台宿街を経て久慈川対岸の天領塙代官所に入牢斬首となった事件があった。
前者の事件に対応した水戸藩会沢正志齋が尊皇思想である水戸学を基に「新論=初の尊王攘夷思想」を著すと、その後40年の間に水戸藩をメルトダウンさせ、京都にテロ暴動、薩長藩にて夷船攻撃を引き起こすと共に、小説の主人公を発狂状態へと追いやる原因となった。
(BB)徳川時代前にコチラ南郷地区で起きた事件として「
幻の白河決戦←クリック」があり、徳川家康が反転攻撃しなければココ南郷・白河地方は「
天下分け目の白河関が原の戦場」となっていたのだ。(以下、略)