今日の舞台は、那覇市のある公民館が主催するキャンドルナイトの企画での出演だった。冬至と夏至の日の各2時間ずつ電気を消すという「地球温暖化」を考えるイベントとして企画されたものだ。そのため、スポットライトをいくつか使っているもののいつもよりも舞台はかなり暗く、観客席には数百のろうそくの明かりが灯っている。中学校の体育館のはずなのに、不思議と神秘的な雰囲気が漂う。
考えてみると私が留学していた時代、バリにはまだ電気が通っていない村がたくさんあった。そんな村にでかけると、明かりといえば石油ランプかロウソウだった。舞台裏で、ロウソクを数本たてて、手鏡を見つめながら、化粧をしていた踊り手たちの光景を今も忘れることができない。しかしバリもそんな時代は遠い昔のことだ。そして日本のことを考えれば、はるか以前のそんな時代を思い起こすことができるのは、ほんの一握りの老人だけなのだろう。
文明を一度手に入れた人間はそれを捨て去ることなんてできない。しかし、その文明によって地球が温暖化されていく現実を考えることは個人でもできるだろう。人が人を殺しあうテロを批判する大国はなぜ、地球温暖化を遅らせるべき自らの基準を定めようとしないのか?温暖化は、自らが自らの首を少しずつ絞め続けているという、いわばゆるやかな自爆テロと同じだということになぜ早く気づかないのだろう?
考えてみると私が留学していた時代、バリにはまだ電気が通っていない村がたくさんあった。そんな村にでかけると、明かりといえば石油ランプかロウソウだった。舞台裏で、ロウソクを数本たてて、手鏡を見つめながら、化粧をしていた踊り手たちの光景を今も忘れることができない。しかしバリもそんな時代は遠い昔のことだ。そして日本のことを考えれば、はるか以前のそんな時代を思い起こすことができるのは、ほんの一握りの老人だけなのだろう。
文明を一度手に入れた人間はそれを捨て去ることなんてできない。しかし、その文明によって地球が温暖化されていく現実を考えることは個人でもできるだろう。人が人を殺しあうテロを批判する大国はなぜ、地球温暖化を遅らせるべき自らの基準を定めようとしないのか?温暖化は、自らが自らの首を少しずつ絞め続けているという、いわばゆるやかな自爆テロと同じだということになぜ早く気づかないのだろう?