院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

散文詩が「いいなぁ」と思えない

2017-08-29 15:24:41 | 俳句

(リルケの訳詞、新潮文庫)

 俳句短歌のような定型短詩を私が好きなことは、このブログの読者なら重々ご承知だろう。しかしながら、私には散文詩がわからない。

 高村幸太郎や荻原朔太郎や中原中也は国語の教科書に載っていた。しかし私には理解できなかった。定型詩でも長いと理解できない。ブッセの上田敏訳、「山のあなた」は親世代の国語の教科書に載っていたらしい。(母は暗記している)。三遊亭圓歌の新作落語「山のあな」が受けたのは、国民がみな知っていたからだろう。でも私には「良さ」がわからない。

 ランボー、リルケ、ハイネ・・など明治から昭和初期にかけての外国詩人の名前は日本でもビッグネームだ。しかし訳詞を読んでも私には「いいなぁ」とは思えなかった。知っているのは名前だけということだ。

 ギリシャ詩の翻訳で読売文学賞を受けた精神科の恩師、中井久夫氏は「声に出してごらん」とおっしゃったが、それでもダメだった。彼と西欧旅行をしたとき、彼の希望でスイスの片田舎にあるリルケの墓に詣でた。現地人さえ知らない小さな墓にお参りするほど、中井はリルケに大きな影響を受けたようだ。

 以上の海外詩は明治以来の青年の座右の文学だったらしい。当時の青年はなぜそれほどに心酔したのだろうか?わからない。私の友人や、まして後輩も「わからない」、「興味がない」という。むかしの文学青年の気持ちは、私の七不思議のひとつである。

 ※私の俳句(秋)
    コスモスの群れを離れしところにも


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