院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

俳句に見る季節の先取り

2014-08-26 05:45:23 | 俳句
 俳句では1月がもう春だったり、まだ寒い日があっても立夏を迎えると「暑し」という句を詠むようになります。これに違和感を覚える人は多いです。むかしは私もそうでした。

 このことは、しばしば旧暦の日にちを新暦に当てはめたから無理が出てきたのだと説明されます。しかし、そうとばかりは言えません。

 俳句には「春隣り」とか「行く春」のように、まだ次の季節になっていないのに、早々と次の季節の予感を感じさせる季語があります。

 「探梅」という季語なぞは、咲いている梅を探しに行くのではなく、まだ咲いていないのを承知の上で「もしかしたら」と梅を探すという意味です。すでに梅が咲いていたら「探梅」という季語はもう使えません。

 和歌の時代にすでに季節の先取りが行われていました。次の季節の兆しを早々に感じ取るのは、日本人の美学と言えないでしょうか?

 少年雑誌は12月に新年号が出るので、少年の私は不思議に思っていました。週刊誌は現在でも1,2週先の日付けが印刷されています。これは、わが国の季節先取り文化と関係があるでしょう。


(ウィキペディア「少年雑誌」より引用。)

 旧暦を新暦に日付けのまま置き換えた行事では、俳句では見られないような妙なことが起こります。七夕(星祭)は7月7日に行われますが、梅雨真っさかりで、私は幼いころから七夕というと雨を連想し、織姫彦星なぞ見たことはありませんでした。ですから、「七夕」は俳句ではちゃんと夏と秋のはざま(8月)の季語になっています。

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