只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

“今”以外は幻想ですね。

2018-02-28 08:29:04 | 日記
東京湾の中間地点の、巨大な海ほたるパーキングエリアです。
海底トンネルの高速ハイウェイを上がったところです。




何かをジーツと頑なに握り締めている、それは絶対に
離したくないものです。

例えば写真かも知れないし、形見の品かも知れません。

なんでもいいのですが、すべてはその品の「思い」と
いうことですね。

つまり姿かたちの無い「幻想」ということです。

ですから「幻想」を掴むと、“無い”ものを「在る」と
することですから迷いの中に入りこむことになるのです。

しかし亡くなった祖先の思いなど、事実にはまったく
何も無い”のですから、“今この瞬間”に浮かんでは
消えて行くものです。

この様に祖先も自分もすべてのものは、姿かたちが在って
無いという“今この瞬間・無思考”が真実ということです。

このことを、私(思考)が必死に理解しようとしても
理解はできません。

なぜなら私(思考)がすべてのことを創作し、
それを否定するという訳のわからないことをしているからですね。(笑)

ですから頭脳に頼らないで、偉大なる“本能”にすべては
任せるということです。
  
例えば、生きてから死ぬまで心臓は一時も休まず、そして
血液も流れているのが“本能”ですね。

これを私(思考)しかいないから、頭脳がやっているとして
迷いの中にいるのです。

これに一時も早く“目覚める”よう、只やっているのが
弛まぬ“只なる実践”の持続です。

意識しないときは自由を満喫するのです。

2018-02-27 11:34:48 | 日記
様々な心の障害の原因は、思い考える「思考自我」です。

結果を思考で解決しようと思っているのですね。

ですが、問題の結果を思考で解決しようと思っても、
それは土台無理ということです。

なぜなら、「思考自我」が問題を次から次へと創っている
からです。

なぜそうするのでしょうか??

それは事実に“問題が無い”からです。(笑)

厳密に言うと私(自我)が問題だからです。(爆笑)

私(自我)は言わずと知れた「幻想」ですから、存在価値が
まったく無いのです。

ですから、私(思考)は存在価値を高めようと
奮闘努力して問題を創るのですね。

そして「そんなアホな!」と、巧みに言ってわからない
ようにするのです。
あくまでも外に問題があるように仕向けるのですね。

この自作自演を見極めるのが、“只なる実践”の持続です。

心が病んでいる人の大部分は、思考が止まることの
ない人です。

これほど自作自演に嵌まっていれば、頭の中が窮屈で
たいへんなことになってきます。

ですから頭の中を解放させることが重要となり、これを
只、やる!”のが実践ということです。

弛まぬ“只なる実践”の持続で、「思考自我」が次第に
小さく小さくなっていきます。

そうすると、頭の中で勝手に妄想する「思考」が
消え去って、“お気楽浄土”が現れるということです。

しかしこのことをいつまでも考えていれば、消え去るものが
消え去らないで永遠に悩むことになります。

私(思考)を遠く遠くに離れさし消え去れば、“”と
いう真実となるのです。

綺麗も汚いも無いのが事実ですね。

2018-02-26 09:43:45 | 日記

千葉県にある日本一の大仏(薬師瑠璃光如来)です。
総高31m、御丈21mあるそうです。
その大きさに圧倒されました。笑



1秒先は、どうにもならないさっぱりわからないこの世を
どう捉えるかで、まったく変って来るのですね。

1秒先は、さっぱりわからないから安心を得るために、
未来に希望と夢を持つのです。

しかし、そんなの無意味としていれば未来を諦めるのです。

詳しく言うと、1秒先の未来は“無い”ということですね。

安心を得るために、未来に希望と夢を持つことは別に
善い事でも悪いことでもありませんが、それは
「思考自我」ということです。

安心を得たいと言っても、それは「幻想」ですから
どうにもならないのです。

ですから不安も安心も一度にまとめて、頭の中から
捨ててしまえ!とやっているのが“只なる実践”の持続です。

頭の中にいろんなことを詰め込まれないのに、自然に
詰め込んでいるのが「幻想」です。

私(思考)という 私(自我)が「幻想」です。

この「幻想」が“今”を否定し、心を支配している
のですね。

絶対安心”の境地は、“今”に成りきり、“無心”に
“真心”に “無思考”に還り着くことです。


ぜひとも、生きているうちに“絶対安心”の境地を
掴んでください。

アッ!と言う間に月日は過ぎますが、常に“今、只”ですね。

2018-02-24 07:57:01 | 日記
この世には沢山の遵守すべきことがありますね。

事実の遵守は、その時その場の“今この瞬間”のみで
その他はありません。

しかし在るとする私(思考)は、規律、法律は大切である。

法律守るは常識・規律守るはまともですから規律、法律を
守らなければならない。

だから規律、法律を破ってはならないと思うのです。
これが「思考自我」を混乱させて更に追加するのです。

守らないのは許されない
破るのは許さない
罰せられるのは腹が立つ
守らないのは悪い
破るのは悪い
罰するのは悪い  罰しないのは悪い
守るのは良い
破らないのは良い
罰するのは良い  罰しないのは良い

この様に時と場合によって変るので、どっちとも
取れるように私(自我)は身勝手と言うことです。

ですから、私(思考)が在ることによって
激しくも緩やかにも心を揺れ動かされるのです。

本来、心というものは、“一心”あり“無心”であり
“真心”ということで、“ひとつ”の存在であって揺れ動くものではありません。

そこに還り着こうと今、今、今と“只なる実践”を持続
しているのです。

動くも動かないもなく“只”と言うことです。

2018-02-21 08:27:39 | 日記
私(思考)を、ジャッジしたり責めたりすると強固になって
いきますからしてはなりません。

浮かんできたら「思考自我」を、まったく相手にしない、
無視する、知らん顔する、触れない、放っておく、
遠く遠く離れることです。

空から浮かんで来た念を掴むと、すぐに偽自分を
持ち出して創作し、ジャッジしたり責めたりするからです。

とにかく、空から浮かんで来た念は「過去の自分」であり、
記憶であり間違いなく「幻想」です。

それを“自覚”へともっていくのが“只なる実践”の
持続です。

そんなの「信じられない!」と、頑なに否定しているのが
ご承知のとおり私(自我)ということです。(笑)

その様な私(自我)が頭に居すわる限り、永遠に心が休まる
ことはありませんね。

心の意識は眼にも止まらぬ速さ約0,01秒で動き、
それに追従して私(思考)が現れて来るのです。

なぜそれがわかるかですが、“只なる実践”を持続して
いるとスローモーションみたいに観えてくるのです。

ですから、生きているうち“心の平安”に還り着く様、
弛まなく何もしない“実践”です。

【私事ですが明日、明後日とあるメーカーの全国会議が
 ありますのでブログはお休みします。
 明日は東京のスウェーデン大使館で開催されます。】