只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山、川は幻想で、事実はそのものですね。

2018-01-31 09:49:55 | 日記
事実とは今”ですね。

そこに言葉や概念が混じってくると一挙に幻想となります。

このことがわからないのは、私(思考)を自分としている
からです。

つまり“”に対して、意識で認識する癖があって、
無意識であれば認識が“無い”のです。

このことを、身体全体で得ようと“只なる実践”で
”じているのです。

無意識であれば、そして無思考であれば、常に心は
穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。

そこに一時でも近ずこうと今、今、今とやっている
のですね。

この様に、言葉では「アッ!」と言う間に頭脳は辿り着く
のですが、しかし明くまでもこれは幻想ですから
迷いとなります。

ですから何を言おうと“只、やる!”しかないのです。

心配、迷い、不安、苦悩、恐れの訪れる中に居るのか、
無意識そして無思考の中に近づき、“絶対安心”の境地の
中に居るかは“”次第ということです。

それは何も難しいこでも容易いことでもなく、
只やり続けるか、やらないかの違いだけです。

辛いときは、辛い中に入って置けば辛くはありません。

2018-01-30 10:41:48 | 日記
私(思考)をコントロールし、支配下に持っていくのが
只なる実践”の持続です。

長年にわたり、自分に成りきった「思考自我」から
抜け出すには相当な気力が必要ですが、浮かんで来た
念を相手にしなければいいだけのことです。

しかし、思いを掴む想念は強大なエネルギーですから、
おいそれとは弱体化しないのです。

それは「思い」を自分としているからですね。

それに身体は身体ですが、この身体を自分として
疑わないのです。

そして、その様な癖があるから問題は無いのに、ここから
問題が起こってくるのです。(笑)

問題が起こってくると、その状況によりますがとても
苦しくなるのです。

頭の中が、カチカチになり痛くなってくるので薬を
処方するのですが、開放するのはその時だけで
またその問題を考えると同じような症状となるのですね。

無理にその症状に蓋をすると、溜め込んだ「思い」が
いつかは大爆発するのです。

只なる実践”は、爆発する「思い」を頭に描かない、
創作しないことを“”じているのです。

“実践”の始めころは、わかりにくいから小爆発を
繰り返して、頭の中をスッカラカンに持って行ったほうが
いいのですね。

「思い」を溜め込んでいくのが、ご承知のとおり 
「思い込み」という厄介なものです。

ですから、空から浮かんだ念に取り付かなければ
この様なことは起こらないのです。

空から浮かんだ念に取り付かないことが、私(思考)を
コントロールし支配下に持っていくことです。

これが弛まぬ“只なる実践”の持続です。

何でも在るように見えますが、本当は“何も無い”のです。

2018-01-29 11:05:26 | 日記
何だかんだと言っても、思考無しの“”があるだけですね。

他は、納得いかなくても“何も無い”のです。

でもこの様に現象があるじゃないかと言っても、それも
頭脳が創作しているだけで幻想なのです。

両親が健在でいると言っても、それは過去と言う幻想
なのです。

自分というのも過去のもので、“”にはどうやっても
無い”のです。

昨日も明日も今日も無く、永遠に“只、今”があるだけです。

“只、今”に、心が縁によって動き始めると無限に幻想が
広がっていくのです。

また心が動きを止めると“只、今”に還って来るのですね。

例えば、玩具のロボットがそこに置いてあると心は
動かないのです。
しかしロボットが小まめに動き始めると
心も「あぁ~!、面白い動きをするな」と動くのですね。

また、道端に犬の糞が在り見ると「あっ、汚い~」と
心が動くのです。

しかし、犬の糞が在っても目に入らなければ心は
動かないのですね。

“只なる実践”は、例えば犬の糞だろうが鶏の糞だろうが、
在って目に写っても心がビクッともしない、
思考に繋がないという“実践”を弛まなくやるのです。

そうすることによって、心が動揺する心配、迷い、不安、苦悩、
恐れにならないのです。

これが真実の“今、只”ということです。

勝ち負けは無いのです、私(思考)の創作ですね。笑

2018-01-28 06:32:57 | 日記

「負けても平気な奴」
という成功学の文章を読みました。その文章の中身を少し・・

…………………………………………………………………
生涯を通じて、よく「負けてもいいさ、気にするなよ」と
いう忠告を聞かされるものです。
全く馬鹿げた忠告ではありませんか!
「負けても平気な奴」は幾度も負けた経験のある人です。

…中略…

そんな人は、勝利を勝ち取ろうとする意志がまったく無い
のです。
真の勝利者は、失敗を毒薬のように嫌っています。
……………………………………………………………………

若い頃、私(思考)はこの様に人生に立ち向かっていました。
しかし頑張っても頑張っても一向によくなりませんでした。

目指すものには、まだまだ努力が足らないのだと
悲観せざる終えなかったのです。

今、その過去を観ると「いい事と情けない事」の間を
行ったり来たりで、どれだけ努力してもまさに
エンドレス状態ということです。

ですから、どうやってもどうすることも出来ないので、
「いい事や情けない事」や「失敗や成功」を、頭の中から
追放することへの“実践道”を歩んでいるのです。

歩いて“”くと、善い事も悪い事も“無い”と
わかって来るです。

同じく失敗も成功も“無い”とわかって来るです。

それらはすべて、頭の中で「思考自我」が創作した
「幻想」です。

事実には、私(自我)が居ない“”があるだけです。

ですから“”に目覚める様、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。

身体がパソコンの前に坐っています。笑

2018-01-27 09:28:58 | 日記

遅刻しそうになる予感があるとき、「ああ~早くせねば!」と
一連の行動に焦りがでるのがこの私(思考)ですね。

しかし、焦りが出ようと出まいと身体はいつも“”に
居るのです。

ですから、身体は私(思考)と一体“ひとつ”ではないのです。

“ひとつ”ではないから何らかの問題が起きてくるのですね。

ではどうしたらいいのか?ですが、それは“只なる実践”を
遂行しているように“思考を使わない、意識を動かさない
ことです。

すべて偉大なる“本能”にお任せするのです。

私(思考)とは関係なく生まれてから一時も休みなく、
この身体の心臓は動いています。

この身体のすべてを維持し守っているのが、
目には見えない偉大なる“本能”です。

でも多くの人達が、自分の全ての身体の機能を動かし
守っているとしているのですが、そんなこと土台無理と
いう事です。

ですから考えなくてもわかっているのですから、それ以上
考えないない様ストップされているのですね。(笑)

繰り返し述べていますが、「遅刻するかも!」は頭の中の
「幻想」で身体とは関係ありません。

急ぐ時は、身体がその様に対応するようになっている
のです。

また、このことを信じないで身体で体験してみてください。
そして“只、やる!”ことが迷いを打ち破るのです。