只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

私(自我)の世界は自己中心で問題が起こるのです。

2017-09-30 09:34:08 | 日記

今この瞬間”の無思考がわからないから迷いが出るのです。

ご承知のとおり幻想の「思考自我」が迷いだからですね。

ですから“今この瞬間”をいくら思い考えても、土壷に
嵌まるだけで終焉がないということになります。

つまり“無思考”を「思考自我」が永遠にわかることは
無いのです。

“只なる実践”は、永遠にわかることは無い「思考自我」を落として、
“今この瞬間”の中で“お気楽な人生”を
送るのですね。

ですが“只なる実践”を持続していない人は、何のことやら
さっぱりわからないのです。

そして逆に「思考自我」は「お前は頭おかしい!」と
怒り出すかもしれません。(笑)

よく言われている言葉に、「お前は馬鹿か!」というのが
ありますね。

事実は紛れも無く言った本人が馬鹿なのですから、
“馬鹿は馬鹿”ということになります。

問題の起こる幻想世界は相手の事を指しているでしょうが、
真実世界は馬鹿も利口も一切“無い”から“”ですね。

ですから「思考自我」が言うことは、すべて自分の事を
自分で言っているのです。

繰り返し述べますが、幻想世界は馬鹿も利口も一切“無い”
のに「在る」とする相対世界ということです。

この“教え”が“空・無”から出てくるまで、常に
只なる実践”の持続です。

夢の中で、夢を見ることは「思考自我」の成せる技ですね。笑

2017-09-29 11:31:36 | 日記

すべての人に「感情」が備わっています。

もし「感情」が無い人がいたら「不感症」とも
言えますね。

「感情」は思い込みから発生するのです。

ですが、その時その場の「感情」は「感情」ではなく
只で、自然で何も“無い”のです。

ですから“只なる実践”は、思い込みを頭の中から捨て
去っていく行いです。

「思い込み」が山ほど在るのが、私(自我)である
ほとんどの方です。

何十年も生きてきて、こんなことを言われるのは
初めて聞くというのが、多くの人なのではないでしょうか。

それは私(自我)から騙されて来ているからですね。(笑)

「思い込み」は幻想であると、しっかり見極め切れば
お気楽な人生”となるのです。

それで「感情」は溜め込めば、溜め込むほど強力な
エネルギーになるので、放出する必要があるのです。

例えば、長いこと憎くて嫌な人が居るのは、「思い込み」が
頭の中にあるからです。

もし、「思い込み」が無ければ憎くて嫌な人もいないと
いうことです。

その「思い込み」を頭の中から放出していかない限り、
永遠に溜まり続けるから恐ろしいのです。

では、放出する方法は何でもありますから一例を述べて
おきます。

憎くて嫌な人がいる場合には、大声で気がすむまで
怒鳴り散らせばいいのです。(笑) 
 
もちろん人前ではしてはなりませんので、誰もいない
車の中とか寝室にて、徹底的にこれらが吹き飛ぶぐらいに
怒鳴り散らして、スッキリするぐらいになるまでするのです。

また、ふとんを枕を叩き散らして叩く元気がなくなるまで
やるのです。

それを1週間もやれば、頭の中の汚れが出て行き“空っぽ
になるに間違い無しでしょうね。(笑)
 
「お前はアホか!」と言われたときは、“あっ、そう”で
終るようになるまで弛まぬ“只なる実践”の持続です。

昨日は出張で、大雨で大変でした。笑

2017-09-28 09:36:09 | 日記

本来人間は“自由自在”に生きているのです。

しかしそれがわからないから、私(自我)はいろんなものを
得ても満足せず、あれやこれやに執着するのです。

そればかりか反骨心の塊で「真実などあるか!」と、
そこから抜けようとしないのです。

ですから、ほとんどの方はこの幻想世界で過ごし、人生を
終えるのですね。

“只なる実践”をやっている方は、おわかりのとおり
本来”には“何も無い”から、自然とわかっているのです。

人間模様は、その時その場の“縁と無常”ということに
なります。

ですから“生も無ければ死も無い”ともいえるのですね。

これは何も思考しなければ“”から教えが来るように
なっているのです。

自由自在”とは、安心も不安も無い“絶対安心”の境地
ですから、“只なる実践”の持続でそこへ生きているうちに
還り着いてください。

身体が元気だと私の出る番が少ないですね。笑

2017-09-26 09:24:17 | 日記

私(自我)はこの世界が「在る」と思っているのです。

別にそれでいいのですが、本当は“無い”のです。

この身体は、“空気”を吸い吐きして生きているのです。

ですから生きているということは、“”から気が入り
込んでいるということではないでしょうか。

またすべての人間の本来は、“空”であり“無”であり
“神仏”そのものと言われる所以ではないでしょうか。

「何をアホな事を言っているんだ!」と、私(自我)は
怒りそれを覆い隠すでしょうが、本来には嘘も誠もありませんから
何を言ったって構わないのです。

しかし思考世界では嘘も誠も、君も僕もありますから
真実世界”を表現するのは、並大抵のことでは理解
されないのですね。

逆に理解された人は、“真実世界”に還り着こうと“実践
に勤しむのです。

そして弛まぬ努力し“真実”に目覚めた人は、幻想世界に
再び帰ろうという気は更々ありません。

“真実世界”をあれこれ言っても、すべては「絵に描いた餅」
ですから、自分で“実践”し体得するしかないのです。

これまで、昔から全世界の大勢の人がチャレンジはした
のでしょうが、残念ながら「思考自我」が行く手を塞ぎ
挫折しているのも多いというのが実情ではないでしょうか。

でもあれこれにめげずコツコツと“只、やる!”のが、“只なる実践”
ですから「思考自我」を無視し取り組んでください。

大も小も、宇宙も砂粒も、すべては“ひとつ”です。

2017-09-25 09:48:03 | 日記

私(自我)という幻想を知って“真の自分”で人生を
過ごすことです。

しかし、残念ながらこの世の中の約99,9%の人が
私(思考)のままということです。

別にそれが悪いということはありませんが、ただ楽があれば
苦があるという「苦の世界」になってしまうのですね。

事実は、“楽も無ければ苦も無い”のですから「苦の世界」
ではありません。

ですから、「苦の世界」はすべて私(思考)が創っているのですね。

その創る速さが約0,01秒ということですから、誰も幻想と
わからなく事実と思うのです。

それが、長年の積み重ねで思い込みという「固定観念」に
なったのです。

僕や自分や私は、思い込みという「固定観念」なのです。

そしてこの思い込みという「固定観念」が迷いを
創っていくのです。

この思い込みという「固定観念」を解いていくのが、
只なる実践”の持続ということです。

私(思考)の、苦悩からの開放ということです。

いわゆる“真の自分”に目覚めるということです。