心に見えないものが“真実”です。
それが“一心”とも“無心”とも“真心”と呼ばれるのです。
ですから私(思考)には、なんのことやらさっぱりわからないということですね。
しかし、わかるのは、私(思考)が消え去った後に
現れるものです。
そして「本当かよ・・?」と瞬間に現れるものが、即座に
“真実”を打ち消すのですから永遠にわからないと
いうことです。
ですから苦悩から脱出する本気度が無ければ、“本能”は
動かないということです。
なぜなら、強大なエネルギーの「思考自我」が
“真の自分”を覆い隠しているからです。
このことは目には見えないから、ほとんどの方がわからず
逆に「何を訳のわからないことを言うんだ!」と
怒る方もいるのです。(笑)
ですから二重にも三重にも、鉄の扉に鍵を掛けているのが
私(思考)であると言うのが実情ですね。
でもそれはすべて想念ですから本当は“何も無い”のです。
空から浮かんだ今の心を掴まなければ、鉄の扉は
そもそも“無い”ということです。
今の心を掴むことは、底のない泥沼まで引き連れて行く
のが、強大なエネルギーの「思考自我」ということです。
しかし、空から浮かんだ念に取り付かなければ、
考え思いに繋がらないということです。
この空念を掴まない“行”が、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。
真剣に実践をやっていくうちに空念も少なくなり、
“今、只”が現状してくるでしょう。
それが“一心”とも“無心”とも“真心”と呼ばれるのです。
ですから私(思考)には、なんのことやらさっぱりわからないということですね。
しかし、わかるのは、私(思考)が消え去った後に
現れるものです。
そして「本当かよ・・?」と瞬間に現れるものが、即座に
“真実”を打ち消すのですから永遠にわからないと
いうことです。
ですから苦悩から脱出する本気度が無ければ、“本能”は
動かないということです。
なぜなら、強大なエネルギーの「思考自我」が
“真の自分”を覆い隠しているからです。
このことは目には見えないから、ほとんどの方がわからず
逆に「何を訳のわからないことを言うんだ!」と
怒る方もいるのです。(笑)
ですから二重にも三重にも、鉄の扉に鍵を掛けているのが
私(思考)であると言うのが実情ですね。
でもそれはすべて想念ですから本当は“何も無い”のです。
空から浮かんだ今の心を掴まなければ、鉄の扉は
そもそも“無い”ということです。
今の心を掴むことは、底のない泥沼まで引き連れて行く
のが、強大なエネルギーの「思考自我」ということです。
しかし、空から浮かんだ念に取り付かなければ、
考え思いに繋がらないということです。
この空念を掴まない“行”が、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。
真剣に実践をやっていくうちに空念も少なくなり、
“今、只”が現状してくるでしょう。