“縁と無常”の自然に、思考無くあるがまま生きているのが
“真の自分”です。
また、それを“純粋意識”と呼んでいます。
この、薄紙1枚離れているリアルな世界に還るため、
“只なる実践”を持続しているのです。
これにより、「私」という「思考自我」が1皮剥け、
2皮剥けて“行”くのです。
その段階は確実にわかってきて、“絶対安心”の境地へと
近づいてきます。
繰り返し述べていますが、“絶対安心”の境地は安心も
不安も無いところで、決定的に思考が動かないところと
言えます。
ですから私(思考)にはわからないのです。
考えが及ばないところですから、我の強固なものはそれを
嘘とも言い跳ね返すからですね。
でも創作したもので苦しくなると、神頼みをして助けて
もらおうとするのです。
非常に幻想ながら、間違いなく自己中心であるのです。(笑)
それが酷いものになると他人を殺したり、自分で自分を
殺したりするのです。
それは“真の自分”から遠く離れているからで、目には
見えないけど獣化しているのです。
この獣化している私(思考)を消し去り、“只!”に還ろうと
やっているのが“只なる実践”の持続です。
この“只!”の状態が繰り返し述べている通り、穏やかな
安らぎのある“絶対安心”の境地です。
“真の自分”です。
また、それを“純粋意識”と呼んでいます。
この、薄紙1枚離れているリアルな世界に還るため、
“只なる実践”を持続しているのです。
これにより、「私」という「思考自我」が1皮剥け、
2皮剥けて“行”くのです。
その段階は確実にわかってきて、“絶対安心”の境地へと
近づいてきます。
繰り返し述べていますが、“絶対安心”の境地は安心も
不安も無いところで、決定的に思考が動かないところと
言えます。
ですから私(思考)にはわからないのです。
考えが及ばないところですから、我の強固なものはそれを
嘘とも言い跳ね返すからですね。
でも創作したもので苦しくなると、神頼みをして助けて
もらおうとするのです。
非常に幻想ながら、間違いなく自己中心であるのです。(笑)
それが酷いものになると他人を殺したり、自分で自分を
殺したりするのです。
それは“真の自分”から遠く離れているからで、目には
見えないけど獣化しているのです。
この獣化している私(思考)を消し去り、“只!”に還ろうと
やっているのが“只なる実践”の持続です。
この“只!”の状態が繰り返し述べている通り、穏やかな
安らぎのある“絶対安心”の境地です。
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