頭に善いことを残して置いていたら、悪い思いも付いて
来るんですね。
善いも悪いもプラスもマイナスもセットですから、代わる
代わるにやってくるということです。
このことを知らないから、「無知」とお釈迦様は
表現されたのですね。
ですから、知らなければ永遠に「苦悩」から脱出できない
ということです。
しかし、『よくぞ!』知ったら“実践”へと歩み出す
のですが、それには過去はどうあれ素直さと真面目さが
必要となるのです。
そうでなければ、この“実践道”の始めは険しい道のり
だからです。
そして、救いは今に無い「過去の自分」は関係ないと
いうことです。
ですから本当の“救い”は、実践にて一旦私(自我)を
忘じて観るのです。
そこが繰り返し述べている通り、穏やかな安らぎのある
“絶対安心”の境地です。
私(自我)が一切無い、光り輝く“真心”とも言えるのですね。
なにしろ言葉に無いところですから、それは例える
しかないのです。(笑)
とにかく善いも悪いも超えたところであり、
プラスもマイナスも無いところであるのです。
それが訪れるまで、弛まぬ“只なる実践”の持続です。
来るんですね。
善いも悪いもプラスもマイナスもセットですから、代わる
代わるにやってくるということです。
このことを知らないから、「無知」とお釈迦様は
表現されたのですね。
ですから、知らなければ永遠に「苦悩」から脱出できない
ということです。
しかし、『よくぞ!』知ったら“実践”へと歩み出す
のですが、それには過去はどうあれ素直さと真面目さが
必要となるのです。
そうでなければ、この“実践道”の始めは険しい道のり
だからです。
そして、救いは今に無い「過去の自分」は関係ないと
いうことです。
ですから本当の“救い”は、実践にて一旦私(自我)を
忘じて観るのです。
そこが繰り返し述べている通り、穏やかな安らぎのある
“絶対安心”の境地です。
私(自我)が一切無い、光り輝く“真心”とも言えるのですね。
なにしろ言葉に無いところですから、それは例える
しかないのです。(笑)
とにかく善いも悪いも超えたところであり、
プラスもマイナスも無いところであるのです。
それが訪れるまで、弛まぬ“只なる実践”の持続です。