只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

久しぶりに温泉に浸かり身体を癒します。笑

2016-12-31 07:57:37 | 日記

【暮れは忙しい、忙しいと心をいじめないないで
 くださいね。
 そんなのどこにもないのですから。笑】



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


本来は身と心とは不離一体です。本来は何も問題は起こらないのです。
 縁の侭に滞ることなくさらさらと流れるように成っているのです。
 対立も不平も不安もなく、淡々と「只」あるが侭に。
 これが本来の様子です。
 ところが言葉を覚え、分別が着き、観念操作を匠にするよう日常的な
 訓練が身に付いたため、本来がすっかり覆い隠されてしまったのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
あるがままの自然の様子を仰っていますね。

ここが当たり前で、本来の様子で“真実”です。
ここに還るために“只なる実践”を行じているのです。

ですから何も難しいことでもなく淡々とやれば
いいのですが、厄介なことに“今”に無い過去や未来
の「思考癖」が、強大な力を持って邪魔をするのです。

この「思考癖」を煩悩とも言いますが、
これは人間しかありません。

あってもいいのですが、弱小で極小であれば
何の問題は起こりません。

しかし、あれやこれが欲しい
他より強くなりたい
お金持ちになりたい
他に負けたくない
儲けたい
貧乏は嫌だ
尊敬されたい
富豪に将来なりたい
他より早く、速くなりたい
他よりうまくなりたい…etc

この様に並べてみるといかに大変かと
いうことがわかります。

これらは事実には“無い”のですから、
思い考えなければ“それがそれ”で気楽なもんですね。

「長生きしたい…」なんて思い考えなくても
永遠の“真の自分”ですからそこに“目覚める”ことです。

仕事は仕事と思わず楽しんで没頭することですね。

2016-12-30 09:31:56 | 日記

“只なる実践”の還り着く先は、心が発生する前です。
心配、不安、苦悩、恐れ等が発生する前です。

今この瞬間・無思考”という“真実世界”です。
ここが本来であり“真の自分”ということです。
ただそれだけですね。

しかし、人間に生まれる前から“真の自分”を
覆いかぶされているのです。

繰り返し述べていますが、わからないよう
覆いかぶしているのが思考自我という厄介なものです。

“真の自分”を覆いかぶすほど強大な力を
持っていますから、おいそれと見極めが
出来るものではありませんね。

でも約2600前から、お釈迦様が命を賭けるぐらいの
修行をされて、“真実”を見極め明かにされた
のですから、それを有難く“実践”へと
導かなくてはなりません。

おわかりになっているとは存じますが、
“只なる実践”には、妨害工作が「思考自我」から
あらゆる手で繰出されてきます。

「やめろ、やめろそんな下らない事!」(爆笑)
「そんなことをして何になる?」
「頭がおかしくなるぞ!」
「魚釣りでもしていたほうが面白いぜ・・」
「そんな事は大学でなければ教えてくれないから
 騙されるぞ!」(笑)

この様に、さも自分が喋っているように、
ありとあらゆる言語を使って頭の中を占有します。

そして次第に「思考自我」は、間違いなく苦悩へと
入っていくのです。

なぜそうなるかということですが、「思考自我」は
問題を解決しようとするからです。
解決して楽になりたいからです。

しかし事実には問題が“無い”のですね。
問題は考えたり思ったりする「思考自我」ですから、
1人芝居を永遠と繰り返しているわけです。

“只なる実践”の継続は“無いものは無い”と
自覚することです。

「無いものを在るとする」思考自我を、
頭の中から消し去ることです。

消し去ったら“真実世界”という
絶対安心”の境地になるのです。

そこに“目覚める”ことが生きてきた目的です。


頭の中が騒がしいのは自分ではなく思考癖です。

2016-12-29 07:58:22 | 日記
山から植え替えた『千両』です。
ただの正月用と玄関口に飾りました。笑





【同じことを言いますが、頭の中が騒がしいのは自分ではなく思考癖です。
 このことをしっかり見極めれば、幻想ですから消えていきます。】


繰り返し述べていますが“只なる実践”の継続は
真実”を体得することにあります。

ですから頭脳でわかるというものではありません。
簡単に言うならば“”という事実から離れず
真中に居るということです。

”という事実から離れたらすべてが幻想ですから、
迷いの中でさまよっているということになります。

この幻想の中、迷いの中から脱出して
心配、不安、苦悩、恐れ等の無い
絶対安心”の境地を得るのが体得ということです。

「そんなことあるのかよ?」と思っている以上、
永遠にそこから“目覚める”ことはありません。

昔から言っている通り、この世は苦楽のある世界ということですが、
これは幻想世界ということです。

これをしっかりと“自覚”することで“事実”が
わかるのですね。

ですから事実の世界は心配、不安、苦悩、恐れ等が
無い”ということです。

繰り返し述べていますが、それを体得するための
只なる実践”の遂行です。
心を動かさないで・・・
意識を動かさないで・・・
自分を忘れ切る!
それだけですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


分かろうと求める自我欲望を捨てることが修行なのです。
 やるしかないのです。やって徹したら呼吸が呼吸を教えてくれますし、
 「今」が「今」を教えてくれるのです。
 無我であることも空であることも呼吸が教えてくれるのです。
 何が何でも他の事は全部打ち捨てて、
 今の一呼吸、吸うのみ吐くのみに専念して下さい
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
思考ではわからないのが“真実世界”なのです。

呼吸の事実を“呼吸”が教えてくれますし、
今の事実を“今”が教えてくれると仰っています。

“空”であり“無”であることもすべて
“呼吸”や“今”が教えてくれるのですね。

決して頭脳の「思考」ではありません。
ですから“呼吸の一息”や“今この瞬間
そして“無思考”が“真実”ということです。

思っていること考えている事を切り離さないと、
真実”は観えて来ないのです。

真実”の中に入るには、弛まぬ“只なる実践”の
継続の結果ということです。

午前中からお客様まわりです。

2016-12-28 09:12:51 | 日記

【繰り返し述べていますが“只なる実践”の継続は
 “真実”を体得することにあります。】

これは次回にいたします。


 只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


兎に角、新参も古参もやることはただ一つ。
 「今その事」に徹することですから。
 その結果心身一如、一心の方からやってくるのです。
 分かる分からないは関係ないのです。後でみな分かりますから、
 今は分かる必要はないのです。また意識で分かる問題でもないのです
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?

“今”の一息に没頭し集中し切ることです。
“今”の仕事に没頭し集中し切ることです。
“今”の勉強に没頭し集中し切ることです。

観念入れず“今”やっている事に没頭し集中し切ることです。

わかる、わからんは真実には無いのですから
目覚める”ことによって真実の方から
真の答え”がやってきます。

“只の道”落ち着いて歩いていきましょうね。

2016-12-27 09:12:12 | 日記
撮るものが無いので前回と同じく“南天”の赤実を山で
写しました。山のところどころで癒してくれます。




究極は頭脳も騙されるのです。(笑)
と言うか理解ができないのですね。

頭脳は『花』を見て、綺麗な『花』と理解するのです。
別にこれでいいのですが、事実は“これはこれ”で、
“真実は只”です。

「そんなことを言ったら何も他人には通じない!」と
怒られる気がします。(笑)

それもそのはずですね、幻想の相対世界は何でも
有りですから、頭脳は事実にもしているのです。

繰り返し述べていますが、別にそれでいいのですけれど、
例えば『絵に書いた美味しそうな餅』を食べられると
事実にしているのです。(笑)
ですから問題となってくるのです。

本当は絵に書いた餅は食べられないのが事実です。
この事実だったら問題は起こりませんね。

テレビのニュースで大火災の現場が映し出されますが、
それは本当の火事ではなくテレビです。
ですから熱くも無くご飯も戴けます。(笑)

僕は〇〇歳で男性で鈴木一朗と申します。
私は〇〇歳で女性で佐藤花子です。
と、この様に紹介されると思います。

そして『私は思考です』と言われる方はいません。(爆笑)
しかし、すべて個々の頭脳が創作したもので幻想ですね。

おわかりのとおり、事実は“今この瞬間”の
これはこれ“で“あれはあれ”です。

ですから心配、不安、苦悩、恐れ等は
何ひとつ無いのです。
そこに還り着くよう“只なる実践”の継続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


雑念が出ようと出まいと、煩悩があろうとなかろうと
 お構いなしに一心不乱にするのです。やがて素直に
 呼吸が出来るようになる。そのことは心身が親しくなり
 一体に近づいていると言うことです。
 呼吸の一心、一心の呼吸。この様子が分かってきます。
 全て今瞬間の作用であることも分かってきます
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
頭の中で勝手に妄想する「思考癖」が出ようと、
「出て来ないぞ」に拘らず
今、只の一息に意識を集中し切るのだ・・と仰っています。

このことがいかに重要なことであるか、
わかっている方は“目覚め”が早くなるでしょう。

吐く一息で終わりです。吐いた一息は戻って来ません。
吸う一息で終わりです。吸った一息は戻って来ません。

ですから“”の瞬間、瞬間で終わっているのです。
そして、これは無思考状態ですのでわからないのです。

しかし“只なる実践”の継続で、次第に
感覚が甦って来るのです。