当たり前のことですが、身体も脳も今と過去等の区別は
できません。
ご承知のとおり、過去や未来は私(思考)が創作している
のです。
そして事実には、“今”も本当は無いのです。
わかりやすいように『例え』て、いるだけです。
“今”は文字で言葉です。
ですから“今”という文字や言葉を無くしたら、
真実の今、“空”であり“無”であり“神仏”そのものに
例えられ、すべては“ひとつ”ということです。
つまり“何も無い”ということですね。
この“ひとつ”が体験するため、私(思考)を創り、宇宙を
創り大自然を創り、すべて「何でも在り」の世界に
したのですね。
この私(思考)の世界は、楽しいことも在れば苦しいことも
あるのです。
つまり「苦楽」が在りの、楽しい片方だけがない「苦の世界」ということです。
それで私(思考)は、もう十分に苦しんだとわかれば楽しい
ことも必要としなくなります。
“只なる実践”の持続は、そこに“目覚める”ため
絶え間なく“行”じているのです。
そして目覚めたところが、“ひとつ”に還った穏やかな
安らぎのある“絶対安心”の境地です。
ぜひとも、この心と身体の一体があるうちに、そこへ
到達するよう弛まぬ“実践”です。
できません。
ご承知のとおり、過去や未来は私(思考)が創作している
のです。
そして事実には、“今”も本当は無いのです。
わかりやすいように『例え』て、いるだけです。
“今”は文字で言葉です。
ですから“今”という文字や言葉を無くしたら、
真実の今、“空”であり“無”であり“神仏”そのものに
例えられ、すべては“ひとつ”ということです。
つまり“何も無い”ということですね。
この“ひとつ”が体験するため、私(思考)を創り、宇宙を
創り大自然を創り、すべて「何でも在り」の世界に
したのですね。
この私(思考)の世界は、楽しいことも在れば苦しいことも
あるのです。
つまり「苦楽」が在りの、楽しい片方だけがない「苦の世界」ということです。
それで私(思考)は、もう十分に苦しんだとわかれば楽しい
ことも必要としなくなります。
“只なる実践”の持続は、そこに“目覚める”ため
絶え間なく“行”じているのです。
そして目覚めたところが、“ひとつ”に還った穏やかな
安らぎのある“絶対安心”の境地です。
ぜひとも、この心と身体の一体があるうちに、そこへ
到達するよう弛まぬ“実践”です。