只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

モリンガの種が成長したら雑木地に植えます。笑

2018-03-31 09:17:53 | 日記
当たり前のことですが、身体も脳も今と過去等の区別は
できません。

ご承知のとおり、過去や未来は私(思考)が創作している
のです。

そして事実には、“今”も本当は無いのです。

わかりやすいように『例え』て、いるだけです。

“今”は文字で言葉です。

ですから“今”という文字や言葉を無くしたら、
真実の今、“空”であり“無”であり“神仏”そのものに
例えられ、すべては“ひとつ”ということです。

つまり“何も無い”ということですね。

この“ひとつ”が体験するため、私(思考)を創り、宇宙を
創り大自然を創り、すべて「何でも在り」の世界に
したのですね。

この私(思考)の世界は、楽しいことも在れば苦しいことも
あるのです。

つまり「苦楽」が在りの、楽しい片方だけがない「苦の世界」ということです。

それで私(思考)は、もう十分に苦しんだとわかれば楽しい
ことも必要としなくなります。

“只なる実践”の持続は、そこに“目覚める”ため
絶え間なく“行”じているのです。


そして目覚めたところが、“ひとつ”に還った穏やかな
安らぎのある“絶対安心”の境地です


ぜひとも、この心と身体の一体があるうちに、そこへ
到達するよう弛まぬ“実践”です。

いつも今で、今以外はありません、在るのは幻想です。笑

2018-03-30 08:58:10 | 日記
「我欲」という執着があると、様々な問題が起きてくる
のです。

そしてその問題はどこまで行っても解決できないですから、
ゆくゆくは苦悩になってくるのです。

ですから長く続く不安や心配は、「我欲」があるから
起こって来るのです。

ではどうするか?・・ですが、それは「我欲」という執着を
捨て去ればいいのです。

浮かび上がってくる都度に、瞬殺すればいいのですね。(笑)

それを繰り返しておけば見事に消え去って、浮かんで
来なくなります。

それがここで言う“只なる実践”の持続です。

しかし「我欲」という執着をそのままにして置きますと、
頭の中で暴れ出して収拾がつかなくなるのです。

そして「我欲」という幻想が、のちのち精神に異常を
来たすようになるのです。

ですから収拾するためにも、精神統一という心を動かさない
実践”が必要となってくるのです。

空から、頭の中に浮かんで来る念を掴まないことです。

それはスルーすることで“空っぽ”になるのですね。

「それじゃ、アンポンタンじゃないの?」と、私(思考)は
言いますが、そんなことになる事はありません。

その“空っぽ”状態、態勢が出来上がれば、
“真の教え”という智慧が訪れるのです。

そこに私(思考)はまったく“無い”ということです。

それが訪れる世界に成るよう、弛まぬ“只なる実践”の
持続です。


ふんわりと桜の花が満開です。

2018-03-29 08:05:17 | 日記
「これは絶対に必要だ」というものは“何も無い”のです。

また「これがあれば安心できる」とか、「これがなければ
幸せにはなれない」というのも“無い”のです。

しかし“無い”ものを「在る」とすると心配、迷い、不安、苦悩、恐れが
発生するようになっているのです。

事実に “無い”ものは“無い”のですから、問題に
なる様なことは発生しません。

再度!言いますが、頭の中を探ってみても“何も無い”
のです。

あまりにも「在る」、「在る」と言う人には、一度
頭の中から取り出して見せてくださいとお願いして
います。(爆笑)

ですから「在る」、「在る」とするものは頭脳が創作した、
実体の無い幻想ということです。

頭脳というものはそういうものであるし、
決して自分では“無い”ということです。

自分で「在る」としたら、必ず心配、迷い、不安、苦悩、恐れに
のちのち繋がってくるのです。

このことを、体得しようとやっているのが
“只なる実践”の持続です。

“実践”はあらゆる背中の荷物を、降ろすことです。

2018-03-28 08:08:47 | 日記
毎回、毎回同じことを繰り返すのが“只なる実践”の
持続です。

何もならないことをしているのですから、私(思考)は
いい加減、嫌気が差すのですね。

嫌気が差しても只、やり続けると、嫌気が消え去って
来るのです。

それは“本来”というものが訪れてくるからですね。

今まで「思考自我」が覆い隠してきた、“真実”がわかって
くるということです。

まだ嫌気が差す状態は、私(思考)が支配権をまだまだ持っているのです。

逆に“只なる実践”の持続が、面白くなってくるというのは
除々に“真実”が見えてくるからです。

「そんなアホな!」が出る以上は、完全なる私(自我)の
支配下に置かれて、楽が少ない苦悩世界であるということ
です。

でも只を実践していくうちに、私(自我)が覆い隠していた
ベールが剥ぎ取られてしまうのです。

そして剥ぎ取られたそこが“本来”という、元々在る
穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。

このことは、おとぎ話をしているのではありません。(笑)
  
そのように見えるのは、これまた私(思考)の創作であり
幻想であるのですね。

とにかく「思考自我」をぶち破る、風穴を開けるため
弛まぬ“只なる実践”の持続です。

桜も満開で、気分も穏やかです~ 笑

2018-03-27 09:19:16 | 日記
救われたい…救われたい…と願っているなら、必死に
握りしめている執着を手放すしかありません。

それができないのは、どうしても「我欲」があるからです。

ですから私(思考)は、「我欲」の塊りで問題が出てくる
ようになっているのです。(笑)

「そりゃ、そうだ」としていれば、「我欲」が出ても
「どうもすみません」で問題なく終るのですね。

しかし「我欲」の塊りであるのを認めなければ、心配、
迷い、不安、苦悩、恐れがのちのち出てくるのです。

私(自我)の頭の中の構造はこの様に設定されているのですから、
「我欲」という握りしめている執着を、頭の中から
捨て去り“空っぽ”にすれば、お気楽な生き方へと
変貌するのです。


これを信用する必要はありませんから只、実践して
“行”けば、自ずと目覚めてくるのです。

そこが思考の理解が無いところですから“只、やる!”のみ
ということですね。

救われる、救われないが無いところ、超越したところ
ですから、穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地と
いうことです。