只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

夢から目覚めるには、これが夢と自覚することです。

2017-11-30 09:02:28 | 日記
成るものに成る”には“只、今”に居続けることしか
ありませんね。

思い考えることが浮遊していたら、いつまで立っても
幻想から抜け出せません。

例えば、このようにやればいいじゃないかな~とか、
ああすればいいかも?と思考することが幻想ですね。

つべこべ言う前に、また思考を持ち出す前に、“只、やる!”
のです。

繰り返し述べていますが何を言っても、あれこれ思考しても
何も出来ないのです。

この世界は只やったら、やっただけのことが現れる事実の
世界だからです。

勿論、現れたら消えていく、消えたら現れるのが道理ですね。

ですが、思考世界はいつまで立っても現れることは
ありません。

また現れないなら、現れるよう努力しているのが
同じく幻想世界ということです。(笑)
  
事実に目覚めようとやっているのが、努力しない努力、
只の努力、“只、やる!”ということです。

お金を沢山得て、幸せになろうと努力するのではありません。
 
お金を沢山得て、幸せになるというのは思考世界であり、
そこから脱出して“真の幸せ”と成る道を努力するのです。

この幻想世界は、お金を沢山得ると同時に超貧乏になるが
セットで、幸せは不幸せが同じくセットです。

これは、弛まぬ“只なる実践”の持続で
明かになってきます。

“実践”は今、今、今とやるのです。

2017-11-29 08:32:14 | 日記
自分の本来は、『例え』でしか言い表すことができません。

それは思考、意識が“無い”からです。

ですから、何を言っても間違いでも正しいということでも
ありません。

どちらでも無い、真ん中、ニュートラルということですね。

相撲に『例える』と、相撲を取らないから相撲にはならない
ということです。(笑)

どこまで行っても“誰もいない”ということです。
「それじゃ、面白くない!」と言うこともありません。(笑)

その様なことですから、“何も無い”ということで
”とも“”とも“神仏”そのものとも、例えらるのです。

これを体得するのが“只なる実践”の持続です。

体得するには様々な方法があるというのは、登山に例えると
山の登り口は沢山あるという事です。

しかし登っていくに従って段々頂上に近づいて狭くなって参ります。
そして、どの登り口も最後行き着くところの頂上は
ひとつ”ということですね。

ですから、本来という真実は“ひとつ”という
自由自在な“真の心”ということです。

とにかく自分と言う「思考自我」を切り離さなければ、
“真の心”と出会うということはありません。

それには、何を置いても弛まぬ“只なる実践”の持続です。


頭脳を出来るだけ働かせないのが“実践”です。

2017-11-28 09:35:46 | 日記
お金は在ったほうがいいと思います。

できるだけ楽なほうがいいと思います。

困った事など無いほうがいいと思います。

幸せな家庭であることを望みます。

争いことなどしないで世界が平和であることを望みます。

そして健康なほうがいいと常に思います。

この様に、まだまだ沢山あると私(思考)は言うのですね。
ですが、ほぼ全滅という結果になるのです。(笑)

なぜなら、この世は相対世界であるからです。

それを私(自我)は知らないから、知ってもそれに反発
するから、酷いのはそれに攻撃するからです。(笑)

相対は、逆のことも付いているということです。

お金は在ったほうがいいと思うのは、お金が無いからです。

同じことですがお金が無いから、お金は在ったほうがいいと思うのですね。

楽なほうがいいと思うのは、苦労があるからです。

苦が無ければ、楽も無いということです。

同じく右があれば左があり、右が無ければ左も無いと
いうことです。

それを創りだしているのが、超コンピユーターの頭脳と
いうことで自分ではありません。

生まれたときは、超コンピユーターの頭脳はありませんね。

成長するに従って、コンピユーターの頭脳は幻想世界に
適応できるように精密に出来上がってきたのです。

意識すると自分に成るように創ったのですから、これは
超コンピユーターの頭脳の成せる技です。(笑)

真の自分”は、そんな超コンピユーターなど有りもせず、

それはそれ、これはこれ”の超簡単な“真実”のみです。

それは、すべて“ひとつ”という元来の“本能”です。

ぜひとも、生きているうちにそこに目覚めてください。

そして、そこは何が在っても無くても揺るぎの無い、
永遠なる“絶対安心”の、穏やかな安らぎの境地です。

苦労など“無い”のです、在るとするのは記憶が創り出すのです。

2017-11-27 09:24:06 | 日記
すでにおわかりのとおり、頭の中で勝手に浮遊する「思考癖」
を消し去る、忘れ去るのが“只なる実践”の持続です。

「思考癖」は想念ですから、“只の念”になれば問題は
何も起こりませんね。

例えば「あの人」は「あの人」で即終れば、“只の念”と
いうことです。

厳密に言うと“只の念”とは、“何も無い今の心
つまり“今この瞬間・無思考”ということです。

ですから「思考癖」は、ここに滞在することは
出来ないし消え去るということです。

しかし、「思考癖」という「思考自我」は強大なエネルギー
を持っていますから、そう簡単に自分から離れることは
出来ないのです。

この様にブログを書いているのも「思考自我」ですから
見極めが必要ということです。

「思考自我」には、強大なエネルギーを弱めていくことは
「死」を意味することですから完全に嫌がるのです。

この“只なる実践”は、完全に嫌がる「思考自我」を
弱め切り捨てていくことを行じているのです。

そして「思考自我」という、年から年中動きまわる
強大なエネルギーを弱め、人間として必要な本当の道具
只の思考”に落ち着かせるのです。

“只の思考”を使うのは瞬間・瞬間で、1日トータル5分も
あれば十分で、無ければ無いで結構です。

とにかく、何かに付け面倒を嫌がる、理屈を持ち出す、
文句を言いたがる、只を嫌がる、楽なことだけやり、
苦を排除する私(自我)を消し去り忘れ去るのです。

残り僅かな人生に、一時の楽と心配、迷い、不安、苦悩、恐れを
持ち続けるか、“真の自分”を知りその中で
すべてを捨て去り、永遠の穏やかな安らぎの境地なるかは、
弛まぬ“只なる実践”の持続で明かになってきます。

フッ…!と我に返る、必要無しですね。

2017-11-26 10:23:39 | 日記
ほうれん草も料理にはいいですね。
お浸しにして戴いていますがポパイにはなれません。(爆笑)




私という自分から遠く離れるのが“人生の旅”です。

私(自我)は存在しないということを、知る“目覚める
旅ですね。

目覚めたら勿論、この幻想世界に還りたいことなど
有り得ませんから、“絶対安心”の境地という穏やかな
安らぎの中で過ごすのです。

それが“真の自分”という“ひとつ”の世界です。

それは目の前に歴然としてありますので、ここに還る旅
でもあるのですね。

私(思考)という世界は、「思考自我」から教えられた
幻想世界です。

ここには正しいと間違いがあるのです。

そのようにすべてが相対にて出来上がっています。
 
それは正しいとすれば、いや間違いとなるのです。
これは間違いとすれば、いや正しいとなるのです。

国会の与党対野党の、質疑応答合戦を観ると正に
その通りだと言えますね。(笑)

真剣に討論されていますから、笑うと失礼になりますが
完全に思考合戦には間違いありませんね。(笑)

それはそれでいいのですが、これらを事実の世界と
思ったら苦悩に陥ってくるのです。

しかし、これを見極めるようになってくると“お気楽な人生
へと移っていくのです。

それは、弛まぬ“只なる実践”の持続で明かになってきます。