東京湾の中間地点の、巨大な海ほたるパーキングエリアです。
海底トンネルの高速ハイウェイを上がったところです。
何かをジーツと頑なに握り締めている、それは絶対に
離したくないものです。
例えば写真かも知れないし、形見の品かも知れません。
なんでもいいのですが、すべてはその品の「思い」と
いうことですね。
つまり姿かたちの無い「幻想」ということです。
ですから「幻想」を掴むと、“無い”ものを「在る」と
することですから迷いの中に入りこむことになるのです。
しかし亡くなった祖先の思いなど、事実にはまったく
“何も無い”のですから、“今この瞬間”に浮かんでは
消えて行くものです。
この様に祖先も自分もすべてのものは、姿かたちが在って
無いという“今この瞬間・無思考”が真実ということです。
このことを、私(思考)が必死に理解しようとしても
理解はできません。
なぜなら私(思考)がすべてのことを創作し、
それを否定するという訳のわからないことをしているからですね。(笑)
ですから頭脳に頼らないで、偉大なる“本能”にすべては
任せるということです。
例えば、生きてから死ぬまで心臓は一時も休まず、そして
血液も流れているのが“本能”ですね。
これを私(思考)しかいないから、頭脳がやっているとして
迷いの中にいるのです。
これに一時も早く“目覚める”よう、只やっているのが
弛まぬ“只なる実践”の持続です。
海底トンネルの高速ハイウェイを上がったところです。
何かをジーツと頑なに握り締めている、それは絶対に
離したくないものです。
例えば写真かも知れないし、形見の品かも知れません。
なんでもいいのですが、すべてはその品の「思い」と
いうことですね。
つまり姿かたちの無い「幻想」ということです。
ですから「幻想」を掴むと、“無い”ものを「在る」と
することですから迷いの中に入りこむことになるのです。
しかし亡くなった祖先の思いなど、事実にはまったく
“何も無い”のですから、“今この瞬間”に浮かんでは
消えて行くものです。
この様に祖先も自分もすべてのものは、姿かたちが在って
無いという“今この瞬間・無思考”が真実ということです。
このことを、私(思考)が必死に理解しようとしても
理解はできません。
なぜなら私(思考)がすべてのことを創作し、
それを否定するという訳のわからないことをしているからですね。(笑)
ですから頭脳に頼らないで、偉大なる“本能”にすべては
任せるということです。
例えば、生きてから死ぬまで心臓は一時も休まず、そして
血液も流れているのが“本能”ですね。
これを私(思考)しかいないから、頭脳がやっているとして
迷いの中にいるのです。
これに一時も早く“目覚める”よう、只やっているのが
弛まぬ“只なる実践”の持続です。