この世には沢山の遵守すべきことがありますね。
事実の遵守は、その時その場の“今この瞬間”のみで
その他はありません。
しかし在るとする私(思考)は、規律、法律は大切である。
法律守るは常識・規律守るはまともですから規律、法律を
守らなければならない。
だから規律、法律を破ってはならないと思うのです。
これが「思考自我」を混乱させて更に追加するのです。
守らないのは許されない
破るのは許さない
罰せられるのは腹が立つ
守らないのは悪い
破るのは悪い
罰するのは悪い 罰しないのは悪い
守るのは良い
破らないのは良い
罰するのは良い 罰しないのは良い
この様に時と場合によって変るので、どっちとも
取れるように私(自我)は身勝手と言うことです。
ですから、私(思考)が在ることによって
激しくも緩やかにも心を揺れ動かされるのです。
本来、心というものは、“一心”あり“無心”であり
“真心”ということで、“ひとつ”の存在であって揺れ動くものではありません。
そこに還り着こうと今、今、今と“只なる実践”を持続
しているのです。
事実の遵守は、その時その場の“今この瞬間”のみで
その他はありません。
しかし在るとする私(思考)は、規律、法律は大切である。
法律守るは常識・規律守るはまともですから規律、法律を
守らなければならない。
だから規律、法律を破ってはならないと思うのです。
これが「思考自我」を混乱させて更に追加するのです。
守らないのは許されない
破るのは許さない
罰せられるのは腹が立つ
守らないのは悪い
破るのは悪い
罰するのは悪い 罰しないのは悪い
守るのは良い
破らないのは良い
罰するのは良い 罰しないのは良い
この様に時と場合によって変るので、どっちとも
取れるように私(自我)は身勝手と言うことです。
ですから、私(思考)が在ることによって
激しくも緩やかにも心を揺れ動かされるのです。
本来、心というものは、“一心”あり“無心”であり
“真心”ということで、“ひとつ”の存在であって揺れ動くものではありません。
そこに還り着こうと今、今、今と“只なる実践”を持続
しているのです。