只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

小さい地震がありました、さすがネットですね場所がすぐわかります。

2017-02-28 11:39:19 | 日記
夜のヒルトン福岡シーホークホテルです。





私には「認識」があるのです。
自分は「男」ですとか、『女』ですとか決め付けたら
それを事実にするのです。

ですから「認識」は幻想を創るのです。
これは悪いことでも善いことでもありません。

でも、生きていく上では「認識」も必要なときが
瞬間あるのですね。

しかし、やたら滅法に使うから問題が起こるのです。

人間業界で、自分は「男」ですとか『女』ですとかは、
「認識」しなくてもわかっているのですから、
わざわざ持ち出さなくてもいいのです。

ですから必要無いということです。
必要なときは誰でも瞬間に出て来るのですね。

例えば、恨んでやると根に持ったりするのは、
絶えず「認識」しているので問題が起こるのです。

ですから「認識」が無いとは、「思考自我」が
現れていないということでもあります。

とにかく、これを明らかにするため“只なる実践”の
継続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


つまり生きながら死ぬことです。この事を「大死一番」というのです。
 死んで、そして大きく生まれ変わることを、
 自己を忘ずると言い解脱と言うのです。本来の自己に目覚めるので、
 これを「見性」とも言うのです
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
生きながら死ぬ、死んで大きく生まれ変わることが
真の自分”に“目覚める”と仰っています。

身体は身体で、体のことを指しているのではなく、
私と信じている「思考自我」のことですね。

もう、おわかりのとおり「思考自我」は幻想ですから
消し去ればいいのです。

でも、その消しゴムがありませんから“只なる実践”の
継続ということです。

最大限に大きくして、物事を観る習慣を得ることが
出来れば、“生死が無い”ことが明かになってきます。

また、すべては“ひとつ”ということも明かになってきます。

何も無いのに考えても仕方ありませんね。

2017-02-27 11:18:15 | 日記

只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


これは自己を忘じた結果ですから、修行の結果とみればよいのです。
 結果を得るには、確かな原因が必要です。
 実地に参禅弁道をしなければならない理由です。
 即ち自己を忘ずるとは、今までの人間を一度捨て尽くすことです。
 だから容易なことではないのです。
 道元禅師の言われた、心意識の運転をやめ、
 念想観の測量を止めることです
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
ひとつ事の、継続の結果を得るため
思考を絶つと仰っています。

頭の中で勝手に動き回るものを止めることを、
道元禅師は心意識の運転をやめ、
念想観の測量を止めることと仰っています。

つまり空から浮かんだ念に取り付かないことです。
このことを修行とも実践とも言います。

「そんな簡単なことか?」と思われることが、
すでに遅しとなるのです。

ですから簡単でもなく、難しいことでもなく
只、今、やる事を余念入れずに黙ってやる!”のです。

この継続で、頭の中で勝手に妄想する「思考癖」が
落ちていくのです。

この「思考癖」が落ちない限り心配、不安、
苦悩、恐れ等が、時ある事に出て来るのですね。

事実は喜怒哀楽で、それも瞬間瞬間で終っていくのです。

しかしそれが長く続くようであれば、
幻想であり「思考癖」ということです。

繰り返し述べていますが、この「思考癖」を
落とし切れば“今この瞬間・無思考”となるのです。

こんなことを何回言っても理屈ですから、
「それはそうだ!」で終り“只、今、やる事を
余念入れずに黙ってやる!”のです。

「いつまでやるの?」を入れず黙ってやる!のです。

そうすると“今に目覚めてくる”のです。
それは自分という意識が無意識になるからです。

空から浮かんで来る念に取り付かないので
“今”しかないのです。

そんな“只なる実践”を、やる暇なんか無いよ~と
言われる方は一生ありませんね。(笑)

一生は“アッ”と言う間に過ぎ去って行きます。

それでも「思考癖」と二人三脚でよければ、
足がしっかり結び付いていますから、
自由自在ではなくぎごちない生き方になってしまいます。

今、やるしかない!”という強い決意を
起こし只、ただ継続していくのです。

野菜類が豊富に収穫できますので日々料理に出てきます。

2017-02-26 09:17:32 | 日記
ここも大宰府天満宮で、牛さんを奉ってあります。
とても見事な牛さんの創りで感心しましたよ。





何かを信じるというのは、常に疑いが裏側にあります。

そして何時か、その疑いが現実となり騙されたと
いうことになるのです。

ですから「思考自我」とはそのようなものですね。

自分のものではない他人から刷り込まれた常識や観念が、
苦悩の原因だということです。

信じなければ“只そのもの”といえるのです。
“只そのもの”であれば、それをやってみれば
“只”ということがわかるのです。

その様なことで、信ずることなく只やることが
“只なる実践”ということです。

これは難しいことも容易いことでもなく、
繰り返し述べていますが“只、やる!”ということで、
「何を?」が無いということです。

信じる、信じないは「何を?」が在るということで
苦悩になってくるのです。

この事は大学院で勉学しても遠く及ばないということです。
ですから“実践”の道を“只の道”というのですね。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


自己を忘ずるとはこのことであり、徹するとも言うのです。
 これが本当の只管打坐です。要するに自己を忘じて
 身心一如に目覚めることです。すると自分というものが、
 本来は無かったと気が付くのです。
 その時からすっかり楽になるのです
。』



いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
執着を持っているいる以上、「思考自我」は
忘ずることはできませんと仰っています。

なぜなら真実は“今この瞬間・無思考”だからです。

このことを理解して只、実践するのです。
今、目の前のことに没頭するのです。

つまり没頭するということは、その時その場に
思考無し!”ということですね。

その“思考無し!”が「思考自我」を忘ずるということで、
身体と心がひとつに成り、
真実に“目覚める”ということです。

そのためには弛まぬ“只なる実践”の継続です。

塵と積もれば山と成る、何でも継続ですね。

2017-02-25 08:24:02 | 日記

身体は身体で“真の自分”ではありません。
そして外の世界には何も“無い”のです。

「冗談言うなよ!」と言うのが、自分と思いこんでいる
「思考自我」です。

問題は“無い”のに、問題を創るのが「思考自我」です。
外に知られたくないと問題に蓋をするのも「思考自我」です。
問題を創り問題を解決しようと頑張るのも「思考自我」です。

この様に一人芝居を自我はやっているのです。
本当に大変なことでご苦労様と言いたいですが、
これも「思考自我」でどうしようもありませんね。(笑)

そのどうしようもない「思考自我」を、
支配して生きるとお気楽な世界となるのです。

我が取れて“只の思考”となるのです。
それは思考を思考として使い、使い終ったら忘れ去る、
直して置くということです。

残念ながら忘れ去る、直して置くということを
しないから、自分勝手に浮かんで創作するのですね。

これが「強固な癖」になっていて
人生を暗闇にしているのです。

このことを信じる必要はまったくありません。
頭の中で勝手に妄想する、強固な「思考癖」を
落とすのが“只なる実践”の継続 です。

只、やる!”うちに、すべては明かになってくるのです。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


坐禅の命は坐禅そのものに成って自己を忘ずる事にあるのです。
 自己を忘ずるとは、その物自体になることです。
 つまり坐禅ばかりになることです。これを徹っすると言うのです。
 坐禅ばかりになり坐禅に徹すると、我れが坐禅となり
 坐禅が我れとなり、我れも坐禅も無くなるのです
。』



いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
自己を忘ずるとは、「思考自我」を忘れ去る、
落としきるということです。

自分と言う「思考自我」から離れきるということですね。
坐禅とはそのものに成り切るということです。

ですから何もしないということに没頭することです。
それによって、頭の中で勝手に妄想する「思考癖」が
落ちていくのです。

仕事であれば仕事とも思考入れずに、
只、淡々と“今やっている事”に没頭することです。

それが自己を忘れ去る行です。
必ず“今に目覚める”ことでしょう。

急がない、慌てない、只やることです。

2017-02-24 08:10:05 | 日記
小雨の大宰府天満宮です。
観光客が多いですね。あちらこちら声がしますのが
ほとんど中国からの団体です。笑






達成感、充実感、優越感、安心感、恍惚感等の
感じは、その時その場で訪れ消え去っていきます。

この様に、この世は“縁と無常”で変化して
存在しているのです。

しかし“縁と無常”に逆らっているのが
「思考自我」ということです。

実体が“無い”ものに逆らうのですから、苦悩していく
ことは間違いないということです。

また「思考自我」も幻想ですから実体がありません。
実体が在るのは身体だけですね。

しかし、この身体も時が来ればありません。
この様にすべてが“無い”のです。

ですから“今この瞬間・無思考”が真実と言われています。

眼を閉じればすべてが無く、眼を開ければ
すべてがあるのです。

たったこれだけですが、それを邪間するのが
頭の中で勝手に妄想する「思考癖」ということです。

眼を閉じると記憶が余韻として出て来るのですね。
そして開けていても記憶が支配するのです。

とにかく実体の無い「思考自我」は、何でも欲しがり
消滅しょうとしません。

それは自分に成り切っていて、生きていると思って
いますから、「死」を恐れる原因があるのです。

繰り返し述べていますが、この世は「生死」は
“無い”のです。

もちろんあの世など、どこを探しても“無い”のです。

ですから、頭の中で勝手に妄想する「思考癖」を
落として、今、今、今と自然に流れていくことが、
絶対安心”の境地といえるでしょう。

この世は「思考自我」の世界であるか、「思考自我」を
支配して生きる世界かによってまったく
違うということです。

例えば車を運転するとします。
ご承知のとおり車は自分が運転しますので、
車が運転するわけではありません。(笑)

しかし私(思考)になった場合、私(思考)がこの世の
中を運転しているのです。

これでは、あちらこちらにぶつけて苦悩だらけに
陥りますね。

ですから、しっかりと「思考自我」を支配して
安全に運転させればいいのです。

もちろん運転しない時は車庫に直しておくのです。
残念ながら、その様にしないのが「思考自我」で
年から年中、やりっ放しなのです。

「思考自我」をなんぞやと理解しておけば
真の道を歩いていけます。

それには、弛まぬ“只なる実践”の継続です。