只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

小雨が桜の花にしっとりきます

2016-03-31 10:06:20 | 日記
ホームページでお世話になっている禅師、
井上御老師がまだ修行僧だった頃の禅話を述べます。

祖師「今から郵便局へ行ってきてくれ」
老師「はい、わかりました」

まだ郵便局が営業していない時間だったので
別の用事をやっていると・・・

祖師「何をやっとる!なぜ行かんのじゃ!」
老師「いや、まだ郵便局が開いていない時間だったので・・」

祖師「この大馬鹿者が!!!」
と雷を落とされたそうです。
ここまでです。・・・・


祖師は、老師に何を教えようとしたのでしょうか?
「今から郵便局へ行ってきてくれ」は
実際に「今から郵便局へ行く」ことですね。
.
『郵便局が営業していない時間だった』などの
私(思考)の理屈は関係ないことです。

このように「今」、「只」、「純粋」を
教示されているのです。

私(思考)の理屈は余計なことで
問題を起こす元ですね。

ですから余計なことを持ち込まず“実践”です。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・身心一如に成るには、真剣に「今」に徹する努力あるのみ。…前回まで

      『「今」ありのままを当体全是と言いいます。
     そのまま丸ごと因果の様子であり、個人的な是非の
     介入すべき余地がないので、「道」「法」と言うのです。
     このことを因果になりきって体得するのが仏道修行です。
            即今底を錬るのです。「今」「只するのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
文字の如く“今、ただ”するのですね。
これが“実践”です。

今、ありのままが因果の様子と言われています。
台風が来て暴風雨になったり、木が倒れたり、
河川が壕流で決壊したりするのが、
ありのままの因果の様子です。

そこは私(思考)の入るところはまったくありませんね。
このように“因果”に成りきり淡々と歩いていくだけです。

繰り返し述べますが、今のありのままの因果の世界に
私(思考)は何ひとつ出来ないことを“自覚”することですね。

そのように“実践”することで霧が晴れてきます。

今は自然薯の栽培中です

2016-03-30 09:49:02 | 日記
自分を自分と思わず、他人として観ると
以外と気楽に過ごせますね。
また、その他人を相手にしないのです。

ですから今、今、今と没頭することが出来ます。
しかし、その他人と遊び始めると
後々には喧嘩が始まり、ぐったり疲れて精神がまいります。

なんの為に遊ぶのか、わからなくなります。
そのように必ずなりますから幻想と遊ばないことです。
遊ばず、幻想を幻想と“自覚”することです。

私(思考)という幻想は姿かたちが無いのですから
相手にはしてはいけません。
遊んだら「酷い目」に会うのがオチです。

これだけ言うと「訳のわからないことを言うな!」と
怒るのが私(思考)です。(笑)
このように私(思考)という幻想は
存在しているが如くすぐさま現れて苦悩になっていきます。

不安、心配、苦しみ、悩み、恐れになっているのは
私(思考)ということを“自覚”することですね。

それには耐えず“実践”です。


只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

     ・・何とも思わずに「只」坐禅して一超直入如来地を
        提示したのが達磨大師です。…前回まで

  『何処にも意はない。「只」の心、空っぽの心が一切と同化し一元となるのです。
   これは結果。身心一如に成るには、真剣に「今」に徹する努力あるのみ。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
“只の世界”ですから何も無いのですね。
もちろん、生きるも死ぬもありません。

「それ言っちゃお終いよ~」と即、口にだすのが
私(思考)ということです。(笑)
このように、幻想の私(思考)は何かあったら
「後付け」を必ずするのです。

そのままで終わらないのが永遠の迷いということになります。
例えば雨が降ってきたら
『しまった!傘を忘れた、どうしよう?』となるのです。

私(思考)が無かったら《しばしの雨宿り》です。
小学生の時でしたが、学校帰りに雨が降ってきたら、
「里芋の大葉」を傘の代わりにして帰ったものです。(笑)
どうしようもない時は『濡れて行こうホトトギス』です。(笑)

その時その場の“雨と一体”ということですね。
それがわかるには“実践”、“実践”とやるしかないのです。

今朝も猫のひたい程の庭の雑草取りでした

2016-03-29 08:42:36 | 日記
身に付けようと躍起、一生懸命にならないことです。
思考入れず淡々とやることをやるだけですね。

言葉に「だいたいで」「まあまあ」「いい加減のところで」
「大概に」「腹八分目で」「てげてげに」がありますね。
緊急な時以外はこんな感じでいいとしています。

でも私(思考)にしてみればそれこそ
「いい加減にしろ!」と言うのではないでしょうか。(笑)
「もっと積極的にやれ」ということですね。

ですが無理なく、ひとつ事に没頭することがお気楽なのです。
終了した時、時計を見ると『もう、こんな時間か!』と
驚かれるのです。

没頭している間は時間も私(思考)もありません。
面白いもので、このほうが以外と早く正確に仕上がりますね。
いかに思考・自我があれば手間取るということになります。

“只、一生懸命”にやる、やらないときも
念に取り付かないことがお気楽ということですね。

実践”の暁には“大安楽”が待っています。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・初めから全て有りの侭で真実丸出しであったことを
本当に知ったと言うことです。…前回まで

   『身心一如になれば一切の計らう癖が取れて涅槃が現成するぞ、
     とも何とも思わずに「只」坐禅して一超直入如来地を提示したのが
    達磨大師です。趙州禅師は、只、「庭前の柏樹子」の一声に成った。
        最早禅師はない。「庭前の柏樹子」有るのみ
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考する癖」が無くなったら
“真実世界”が開けるぞ!と、思わずに
只、只、ありのままに在るということです。

只、「庭前の柏樹子」であるということです。
“只、これはこれ”で
“只、あれはあれ”であるのですね。

「お餅はおいしい」ではなく“只、餅は餅”です。
でも『それじゃ、面白くないよ~』と言うのが
私(思考)です。(笑)

どうしても一言がないと気が収まらないのですね。
これが「思考癖」です。
念が浮かんできたら、思考に繋がない前に

常に“実践”です。

桜もぼちぼち咲き始めました

2016-03-28 09:14:02 | 日記
ストレスを感じているのは私(思考)ですから
知らん顔しとけばいのです。

私(思考)に付き合うと苦しくなってきます。
私という思考・自我は幻想ですので相手にしなければ
消えていくだけです。

繰り返し言いますが「身体は身体」です。
「足は足」です。「目は目」です。
“これはこれ”です。“あれはあれ”ですね。

私とか自分と言っているのは思考で自我です。
ですがこれにイチャモン付けると私(思考)と一体になります。
ですから『私とか自分と言っているのは思考で自我です』で、
終わればいいのです。

そして「うん?」と振り返らないことです。
例えばオナラが出てプ~ンで、終わりで、跡形は何もありません。
そして「臭い!」と振り返らないことです。

そんなことわかっていることですので、
振り返ってくると不味い事になります。(笑)
善悪の観念が出て、こんなことでしたら悪いとなって顔が真っ赤になります。

もちろん意識して人前でする人は誰もいません。
意識無く自然に出たものは自然ですからそれでいいのですね。
善悪の良いということではなく『只、いい』ということです。
 
「~は良い、~は悪い」としっかり思い込みが在る人は、
その思い込みがストレスとなり一生支配しますので

実践”で手放していきましょう。


只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・身心一如となりすっかり「隔たり」が無くなって何の意もない。…前回まで

      『「隔たり」が無くなるとは、心身一如であり、
     思考が無く、自我が無いことである。初めから全て有りの侭で
       真実丸出しであったことを本当に知ったと言うことです。
           祖師に何らかの意が有ったら凡夫です
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考する癖」が無くなったら“大安楽”ですね。
そこが“真実世界”です。
本来に還り着いたということです。

“今”が真実の様子であるということがわかります。
残念ながら私(思考)が在ったら永遠にわかりませんね。
わずかこれだけのことで「苦楽の世界」にいるのです。

楽を望む分、苦悩が待ち受けているのです。(笑)
『本当ですか?』と尋ねられる方もいますのでお話しておきますね。

まず『本当も嘘』もありません、この宇宙は
ニュートラルに保つよう出来ているのです。
楽におれば苦が引っ張るのです。
苦におれば楽が引っ張るのです。
ですから苦楽を考えなければいつもニュートラルのところということになります。

ですからこのニュートラルが宇宙であり“真の自分”ですね。

いいお天気です、山畑でコツコツと・・

2016-03-27 08:46:44 | 日記
『公案』です。

素麵を食べている参禅者に
少林窟道場の井上老師は、問いました。
「なぜ、少林窟の素麵は、黒いのか?」

公案は私(思考)が無いところに行くものです。
素麵自体の白黒を言っているのではありません。

思うこと、考えること自体が迷いに入っていくのです。
思うこと、考えることを全然していないかどうかを
試しているのが公案で禅問答です。

「じゃ、どう答えるのだ」と言われても答えようもないですね。
無といっても言いし、ちくわ耳でも言いし
「なぜ、少林窟の素麵は、黒いのか?」でもいいのです。

何の意味も全然無いのが『公案に答える』ものです。

さぁ、今日も“実践”ですね。


只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・すると趙州禅師は、庭前の柏樹子と答えた。…前回まで

     『達磨大師は解脱底の祖師です。道元禅師が帰朝されての一声が、
    「空手にして郷に帰る。一毫の仏法無し。唯眼横鼻直なることを識得す。
      朝々日出で来たって夜々月西に沈む。鶏は五更に向かって啼き、
        三年にして一潤に逢う。」仏法も道理も聖解も無い。
      身心一如となりすっかり「隔たり」が無くなって何の意もない
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
達磨大師も道元禅師も
まったく私心が無いということですね。

思考する癖が無くなって精神も無いと言われています。
“空”であり“無”であり
“只ひとつ”ということですね。

私(思考)達みたいに、心があちらこちらに
動き回る癖がまったく無いということです。
“一心”に在るのが達磨大師であり道元禅師です。

とにかく、思考する癖を落としていくのが
実践”の道ですね。