私(自我)は、心配、迷い、不安、苦悩、恐れの中で
生きているのですね。
つまり、私(自我)が創作したもので、私(自我)が心配、
迷い、不安、苦悩、恐れているということです。
そしてそれにいつまでも引っ張られていると、
よからぬ事にまで発生するのです。
ですから「思考自我」が創作したものを、心眼で“只、見る!”
ことです。
そうすることで「幻想」ですから消え去っていくのです。
言わば一瞬の隙を与えない、隙をつくらないで
事実の“今”に居ることです。
そうなるよう“只なる実践”の持続で“本来の今”を
体得することです。
体得とは、私(自我)がこの世には居ないということを、
頭脳ではなく身体で感じ取るということです。
それが“今この瞬間・無思考”という真実です。
犬や猫の動物は、どれ一匹として我輩は犬や猫であるという
認識はまったくないのです。
また、生きているとか死があるなどは持っておらず、
あるがままに過ごしているのが事実ですね。
ですから、人間にしてみれば「思考自我」という
「幻想」が、いかに事実を捻じ曲げているかおわかりに
なることでしょう。
今、今、今、淡々と“実践道”を歩み続け
真実に“目覚める”ことです。
生きているのですね。
つまり、私(自我)が創作したもので、私(自我)が心配、
迷い、不安、苦悩、恐れているということです。
そしてそれにいつまでも引っ張られていると、
よからぬ事にまで発生するのです。
ですから「思考自我」が創作したものを、心眼で“只、見る!”
ことです。
そうすることで「幻想」ですから消え去っていくのです。
言わば一瞬の隙を与えない、隙をつくらないで
事実の“今”に居ることです。
そうなるよう“只なる実践”の持続で“本来の今”を
体得することです。
体得とは、私(自我)がこの世には居ないということを、
頭脳ではなく身体で感じ取るということです。
それが“今この瞬間・無思考”という真実です。
犬や猫の動物は、どれ一匹として我輩は犬や猫であるという
認識はまったくないのです。
また、生きているとか死があるなどは持っておらず、
あるがままに過ごしているのが事実ですね。
ですから、人間にしてみれば「思考自我」という
「幻想」が、いかに事実を捻じ曲げているかおわかりに
なることでしょう。
今、今、今、淡々と“実践道”を歩み続け
真実に“目覚める”ことです。