只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

野菜の苗とか畑に植える時は雨降り後がいいですね。

2017-05-31 08:43:30 | 日記
家の庭にある桃の小木です。現在3個の実が付いています。
ピンク色になるまで工夫していきます。笑





「孤独死」という言葉があります。

ご承知のとおり本来には“無い”のです。

「でも、あるじゃないか…あの人は誰も知らずのうちに
淋しく一人で亡くなっていたのよ…」と仰る方がいます。
そして「あまりにもかわいそう…」と我見まで付け加えられます。(笑)

次には「あっ、そうそう、今晩は焼き鳥屋で生ビールの
ご馳走だ!」に変り、その前の事はどこ吹く風となるのです。(爆笑)

この様に、私(自我)はいい加減なもので
どうしようもないのですね。

ですから相手にせず、無視して、寄り付かず忘れ去って
おればいいのです。

そうすると今、今、今の“今この瞬間・無思考”で
気楽に過ごせるのです。

「孤独死」という人間が創った幻想文字に囚われず、
また「生死」に囚われず、永遠の“真の自分”に
目覚めるよう、弛まぬ“只なる実践”の持続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

具体的な努力には、必ず具体的な結果が有る。
 是れは信じて疑うべからず。ただ、何事に対しても成りきる力は、
 平素の努力なくしてはあり得ぬゆえに、つねづね心を惑乱させぬ様に
 することである。惑乱するような場は避ける勇気と決心がいるのである。
 その補足として、心を見失わぬようにたえず注意することだ
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
その努力を完遂するには、成り切る力が伴うと仰っています。

同じく“やり切る力”、ひとつのことに“没頭する力
ですね。

また、その“力”が散乱するところは遭えて避けなければ、
その努力が発揮できないと仰っています。

とにかく、ひとつに心を置き今することに
没頭する事が“只なる実践”です。

何も考えない時を多く持つと今がはっきりしてきますね。

2017-05-30 09:38:00 | 日記
アジサイの挿し木から今では大きくなりました。
家の周りは挿し木から育てたアジサイで囲まれています。
6月中は綺麗な花で楽しませることでしょう。





只、今”とは、「時間」など無い空間で永遠を指します。

もちろん 時間とは、人間が道具として考え出した
概念なのです。

それを見極めることが“只、今”を認識することなのですが、
私(思考)にはそれができないのです。

なぜなら、私(思考)そのものが生きていると
しているからです。

只、今”を認識できるのは、私(思考)が消えたときです。

ですから私(思考)が生きているとする以上、“只、今”を
認識することはできません。

このことは本来、何も無いところから思考が発生し
幻想言葉になったのです。

ですから、人間が創った言葉「時間」とか「今」などは、
どこにも“無い”ですし存在しないのです。

何にも無いところであるならば、何とでも言えてそれが
嘘でも本当でもなく“”ということですね。

その様に思考が無いところを“只、今”で示すのです。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

目的に向かって心を定めることは、即ち単純化し一心に収束することである。
 だから一心を乱さねば、全身目的に蕩尽して雑物混入を許さぬ。
 だからその徹底力は何事をも成さずにはおかぬ。
 断じて行えば天魔鬼神も及ぶこと不能(あたわず)とある
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
心を“ひとつ”にして邁進することと仰っています。

ひとつ”には心も無く、純真そのものです。

目的に向かって心を定めることは、決めたら一切
心を使わないということです。

これらに還ることは容易なことではありませんが、
只、やる!!”決意が本物であれば、その様に流れていきますから
目覚めてくるのは確かです。

それには“只なる実践”から一時も目を離さないことです。

今 今 今と今が永遠に流れていくのですね。

2017-05-29 08:49:29 | 日記
ニンジンの苗も種から順調に育っています。




新聞、ニュース、ネットで最近流れている、加計学園問題に
なっている前文科次官の記者会見の様子です。

前文科次官は東大卒の優秀な経歴を誇っている方です。
また文科次官という事務方のトップに君臨されていた方です。

この退官された方が、なぜ今頃になって新聞、
ニュース、ネットを賑わすかということです。

記者会見を観ていても内容はさっぱりわかりません。

退官させれたのを逆恨みしたのでは?
政権の隠し事があるということを、世間に知らせたかったのでは?

いろいろ在ると思いますが、よりによってこれに
大勢の民進党が乗ってきたのですね。(爆笑)

真相は前文科次官の「思考自我」が騒いで来たと
いうことだけです。

騒がなければ、退職金で頂いた
8千万円もそのままということで良かったのですが、
今後どうなることやらですが、「思考自我」はそんなことは
お構いなしです。(爆笑)

文科次官という事務方のトップは教育行政の監督です。
しかし何も関係無い、女性貧困の現地調査を自費で、
文科次官という身は隠して、頻繁に行ったと本人は
言われています。

いや~感心な方ですね!、と褒めてあげたいですけど、
行きつけ場所がなんと!!…出会い系バーということで、
その後も食事に煌びやかな女性を誘って、お金も差し上げるという、
まことに至りつくせりの、女性貧困の現地調査を
しました・・と堂々と仰っていました。(爆笑)

この人の「思考自我」は、最高の創作能力を持っているから
付ける薬が無いのですね。

またこれに相乗りする民進党の
国会議員の「思考自我」も凄いですね。(笑)

この様に「思考自我」から振り回されていると、
必ず苦悩になってくるのです。

ですから早くそれに気付き「思考自我」を
只、観る”ようになれば即、消えていくのです。

それには弛まぬ“只なる実践”の持続で目覚めてきます。

今日は家族で焼肉屋に行きます。笑

2017-05-28 09:17:17 | 日記

ありとあらゆる国があり、その国々では様々な事が
起こっています。

これは進歩した技術によって、リアルタイムで
ネット等に流れてきます。

悲惨なことであれ、素晴らしいことであれ、ユニークなこと
など、それはそれは様々ですね。

でも、それは事実ではないのです。

それは私(思考)が創作して、悲しんだり、喜んだり、
深く考えたり、感心したりして過ごしているのです。

事実は画面を画面とも知らず、見ているとも知らず、
只、観ているだけです。

ですから、リアルタイムでネット等に流れてくるのは
幻想だと、わかった上でそれを見ればいいのですね。

そうすると、わからないことが即座に見えてくるので、
それを楽しんで終れば何もありません。

思考世界でも人間として、正しく、素直に、真面目に、
愉快に、人生を過ごすことですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

一心を乱すことなかりしか。いよいよ事に当たったならば、
 迷い無く素直に実行することである。何をするにしても、
 心が定まらなかったら躊躇することになる。
 その時、定点が無かったら不安感に襲われたり、
 自信が持てないために中心を外れた発想になったりする
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
一心を乱すことなかりしか。“無心”であれと仰っています。

つまり心を騒ぎ立てるなということです。

心を騒ぎ立てると、必ず問題が起こってくるように
なっているのですね。

しかし思考では、それはわからないのです。
なぜなら問題を創っているのが思考だからです。(笑)

心配、迷い、不安、苦悩、恐れを創っているのは
「思考自我」で、それを嫌っているのも「思考自我」です。

私と言う「思考自我」から離れていくと、
次第に心身一体になり“”に目覚めて来るのです。

何をしなければいけない事などありません。

2017-05-27 09:21:50 | 日記
昨日、散髪に行きました。散髪が終ったらワンちゃんが
入って来ましたので、写真を撮ってあげようということで、
カメラを向けたら早速イスに座りポーズとってくれました。笑
ごろうちゃんという名で清潔感がありましたよ。







籠の中で育てられる鳥と、野鳥は同じ鳥ですが
開放さがまったく違います。

私(思考)というものは、固定観念、善悪の観念、
自己否定等で自分を籠の中に入れています。

籠の外は自由自在で本来の“真の自分”とも言えますね。

しかし、籠の中で窮屈に暮らす偽の自分は、
真の自分”を知らないから苦悩するのです。

籠の中から出たいという機運があったときから、
偽の自分の力は次第に落ちていくのです。

そして逆転現象が起こり、偽の自分は支配されるように
なるのです。

今までは「ちょっと待てよ?」があったのに、
待つも待たないも無くなってしまうのです。

無くなって本能のままに動くようになるのです。

「どうしょう…困ったな?」が同じく無くなるのですね。
それは“真実”が明かになっているからです。

「どうしょう、こうしょう、ああしょう、
困ったな、どうすればいいだろう…」という、
頭の中で勝手に妄想する「思考癖」は、幻想と
わかっているからです。

どんな素晴らしいことでも、ちょっと勿体ないかも
知れませんが、1千万円も儲ける話も幻想ですね。(笑)



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

今を失脚して何かせん。理想もなさざれば夢に如かず。
 今じゃ、今じゃ。今という今なる時はなかりけり 
 まの時来れば いの時は去る
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
事実は“”です。“”の様子を仰っています。

事実の世界は“縁と無常”だ、ということですね。

何かと何かが触れ合って現れるのが“縁”で、
どれひとつとっても“縁”でないものはないのです。

この様に、すべては留まることなく流れていることを、
“無常”と表しているのです。

意識しなくても、思考しなくても生きていれば、
心臓は止まることなく脈々と働いているのです。

ですから心意識を止めて、思考を使わないことを
やって見れば、そこが“真実”とわかるのですね。

ここに落ち着くよう弛まぬ“只なる実践”の持続です。