只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

起こることは起こるのですね、お任せしましょう

2016-05-31 07:24:22 | 日記
自然薯の蔓も順調に伸びてきました。
他に植えている、大和芋の蔓も伸びています。




どこを探しても安心は“無い”のですね。
安心や不安が無いところが“絶対安心”です。

前回に引き続いて宮崎老師様のお言葉をご紹介いたします。

11歳から坐禅しておる、
嫌々ながらやっておった、初めは。
そんなことするよりほかにすることがあると思っておった。
坐禅するよりほかにすることが
いくらでもあると思っておったんや。

老師が82歳で亡くなった。
老僧の温かい死がいを見たときに
「偉い人やったな」と思った。
80にもなっておって、雲水と同じものを食べて
雲水と同じ様に1日を、わたくしのない生活をする、
やっぱり日常の生活が手本やな
老僧の、口だけでない 実行で示した、それが元や。
できたら老僧のような坊さんになりたい。

だから人間はまねをせないかん。
学ぶということはまねをすると
いうところから出ておる
1日まねをしたら1日のまねや、
それで済んでしもたら。2日まねして
それであとまねせなんだらそれは2日のまねや
ところが一生まねしておったら、まねがほんまもんや。

正岡子規の『病牀六尺』という本には
「人間はいつ死んでもいいと思うのが
悟りだと思っておった。ところがそれは間違いやった。
平気で生きておる事が悟りやった」と。わかるか。
平気で生きておる事は難しい。
死ぬときがきたら死んだらいいんやし、
平気で生きておれる時は平気で生きておったらいいのや。

私もたばこやめるのに苦労した。・・・
「わたくしが今度煙草を吸ったらわたしの命を
取ってください」、本尊さんにお誓いをした
命が惜しいもんやから今度は止まった
だから人間は命がけやったら何でもできるなと思った
何か止めたいと思う事があったら
命がけでやってください
…次回に続く

正に、しびれる様なお言葉です。
何とか、かんとか言っても“実践”しかありません。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・菩提心を軽く見る人は軽い法しか得られないのです。
本当に純粋になれないからです。何としても理屈抜きで行ずることです。…前回まで

  『迷いや不安を根底から取るのが仏道修行ですが、
    それは自分の本当の心を知ると言うことです。
  この時、間違いやすいのは先に自分と言う者を認めて、
       この心を何とかしようとする人が多いのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
心配や恐怖等の思いを取り除くことが
生きる目的です。

本来には一切、苦悩等は無いのですから、
その苦悩等を創作する思考癖を
根底から切り落とすことです。

なんとかしょう」とする私(思考)を持ち出さないことです。
持ち出しても「なんともなりません」ね。

ですから今、只の“実践”です。

晴々とした爽やかな朝です

2016-05-30 07:26:11 | 日記
昨日は小雨の中、安納芋の苗を少し植えました。
これからかなりの苗が出来ますので、山畑作りも大忙しです。笑




『明日』があるような気がしますが
『昨日』と同じく、やはり“無い”のですね。

前回に引き続いて宮崎老師様のお言葉をご紹介いたします。
全てがみな坐禅だ、
そのものと一つになっていく事が禅だから、
歩いたら歩いたで、しゃべったらしゃべったで。
スリッパを脱ぐのも坐禅の姿や、
スリッパを揃えるのが当たり前のこっちゃ
放っておけないんだ、
スリッパがいがんでおるということは
自分がいがんどるんだ
自分がいがんでおるから、
いがんだやつがなおせないんだよ
だから物を置いてもちぐはぐに置くのと
まっすぐに置くのと、すべて心があらわれて
おるんだから、心がまっすぐであったら
全てのものをまっすぐにする必要がある
修行をしておるんではなくて、
当たり前のことをやっておるんや、
それよりやることはないんだ
…次回に続く

“そのものと一つになっていく事が禅だから”と
仰っています。

例えば子供と遊ぶなら
その『子供に成りきって遊ぶこと』です。
ですから“子供も自分”です。

そして、そこには子供も自分もいないので
ただ在るのは“遊んでいるともわからない遊びだけ”です。
例えという頭脳はここが限界です。(笑)

後は“実践”で感じ取って下さい。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・どうしても癖として出てくるので同じ繰り返しが続かないのです。
それを続けるのが修行です。…前回まで

    『それをしなければ癖は陶冶出来ません。
     そこで継続を促したりやる気を増幅したりするためには
      どうしても菩提心がなければ駄目なのです。
    ですから菩提心を軽く見る人は軽い法しか得られないのです。
   本当に純粋になれないからです。何としても理屈抜きで行ずることです。
     この心得なくしては本当の参禅弁道ではないのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
菩提心は“真実を求める心”でもあります。
“真の自分”を見極める“只の道”でもあります。

純粋意識は空であり、無であり、宇宙であり
“真の自分”と言っても過言ではありません。

ぜひとも“真実を求める心”を持ち
弛まぬ“実践”で明かにしてください。

今朝は雨ですが、安納芋の苗を山畑に植えてきます

2016-05-29 09:18:10 | 日記
ハーブを6種類、あちらこちらに植えています。




“真実”に出会えることが生きる目的ですね。

ここで宮崎老師様のお言葉をご紹介いたします。

何にも考えない
妄想せんことや
いわゆる前後裁断や
その時その時 一息一息しかないんや

何か考えたらそれはもう余分や
人間は名誉とか地位とか見栄とか我慢とか、
そんなもんで一杯だ
やっぱり欲は切り捨てろ、その欲が邪魔をする
その欲をもっているのが自己、自分だ
自己を消し去る、それが坐禅だ。

息と一つになる。欲の起こる隙がない。
坐禅ということはまっすぐということや
まっすぐというのは背骨をまっすぐ首筋をまっすぐ
右にも傾かない 左にも傾かない

まっすぐということは、正直ということや
心身は一如や、人間はわがままが自由やと思とる
ちゃんと型にはまったものが
平生底(日常)でなければならない
…次回に続く


仰るお言葉通りですね。

何にも考えない …“実践”です。
妄想しない …“実践”です。
前後裁断のところに居る…“実践”です。
その時その時、一息一息から離れない …“実践”です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・何でもないただの一息をするだけです。…前回まで

  『しかし続けることはきついのです。続けるとは一つ事を繰り返すことです。
     一つ事の繰り返しには理念も理屈も必要有りませんが、
   どうしても癖として出てくるので同じ繰り返しが続かないのです。
           それを続けるのが修行です
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
いかに「思考する癖」を『自分』としているかということです。

この自己から離れるのが“実践”です。
思考する癖を落とすのです。

それがわかっていても絶えず『自分』が出てくるのです。
ですから不安、心配、苦悩等に陥るのです。

残念ながら、それを頭脳で止めることができないのですね。
なぜか?・・・というと、それを頭脳が創作しているからです。(笑)

つまり“実践”しかないということです。
よく言いますね、“やるしかない!”このことです。

今朝も雨です、小雨になったら山に行きます

2016-05-28 09:33:11 | 日記
チェンソーで作った10年前のフクロウ達です。
今じゃ山の中でちょうどいい具合です。笑




『私は〇〇〇が心配で今は苦しい気持ちだ…』
と、落ち着かれない方もいると思います。

しかし、これは『〇〇〇』が対象ではなく
自分の中の、私(思考)が心配になっているのです。

つまり思考自我であり「幻想!」です。
とは言っても、これを見極めることは頭の理解では解消されません。

幻想世界に居て幻想を見破る事は至難の業ですね。
頭脳に支配されているにもかかわらず、
『わかった!』と言って頭脳で解決しようとするのです。

ですから永久に“真実”に目覚めないということです。
“真実”には心配や不安、苦悩や恐怖はすべてありません。
ですから“お気楽”ということです。


話は変りますが、現在ニュースを賑わしている東京都知事の舛添さんですが、
多くの給料やボーナスを貰い、政治資金を自我のため
湯水のように使い贅沢三昧されましたね。(笑)

最高の至福ではないでしょうか?
でも内心はまずい事になった!と恐れ逃げ始めました。

できるだけ悪事がばれないよう、
予防線を張ることで必死ではないでしょうか。(爆笑)
そんなことしなくても、やったことはやったことで
「すみませんでした」と謝り責任をしかと取ればいいのです。

何千万円を違法に使ったら利子付けて返済すればいいのです。
もし刑が確定すれば、それに従えばいいということです。

逃げれば私(思考)は、どこまでも襲用に追いかけてくるので
逃げ切るということは出来ないのです。(爆笑)

このように残念ながら思考する自我が在る以上、
どこまでも問題が出てくるのです。

ですから思考する前にいることが“実践”です。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・だから、単純な一息が朝から晩までできるようになったら、
もうしめたものです。…前回まで

 『初めは癖ばかりですからきついです。どうしても拡散しますから。
    だが本来きついことをするんじゃないのです。
         何でもないただの一息をするだけです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
考えず、思わず只吸う今、只吐く今をやるだけです。

しかし、思考する癖は“只の一息”を遮るのです。
別に息を止めるということではないのですが、
息をしている今がわからなくなるということです。

つまり幻想の中にいるということです。
事実は“只吸う今”で“只吐く今”です。

『おや!何の音だろう?』で、幻想世界に入っていきます。
ですから「ブー」という音は、音を音と意識せず
「ブー」は「ブー」で消え去ります。

とにかく“実践”続ければ“真実”が現れてきます。


デジカメを忘れました 笑

2016-05-27 09:30:13 | 日記

私(思考)の真相…第11回目です。

この世の中には様々な『決まり事』があります。
『ルール』とも言いますが、社会生活を営んでいく上には
この『ルール』を守ることは大事なことです。

でも、私の頭の中にあると「苦悩」になるのです。
そもそも頭の中は“空っぽ”が本来なのです。

頭の中が“空っぽ”であれば自然そのものです。
ただ人間に生まれた以上、知能が備わってきますから
必要なときはそれを使い、使わないときは忘れ去って置けばいいのです。
忘れ去って『置く』ということですから
無くなるということではありません。

ですから1日の中で、頭の中が“空っぽ”がほとんどということになります。
これが“お気楽”というものですね。

残念ながら、それを許さないのが私(思考自我)ということです。
頭の中で年から年中、騒ぎ立てています。

やれ、これをしなければ、あれをしなければ・・
失敗した、もっとうまくやるには…
遅い、もっと早くしなければ・・
あいつが憎い、私は情けない…
金が無くなってきた、どうにかしなければ…
もっと面白いことはないかな~
とにかく色んなことが頭の中をぐるぐる回っています。

これは過去に取り付く癖があるからです。
これが在る以上、どうにもできないのです。

頭の中の「決まり事」はすべて「善悪のルール」で幻想です。
これは悪い、あれは良いと決め付けるのです。

事実には、どこを探してもまったく
そんなものは無く頭の中だけです。

ですから“無いものは無い”これが“真実”ですね。

それを腑に落とすことが“実践”ということになります。