只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

雨上がりのすっきりした朝です

2015-11-30 09:07:38 | 日記
《HP参照です、内容を若干、私(思考)が
        変えているところがあります》

この世のすべては、必ず裏切る。そらごと、たわごと、真実は一つもないからだ。
人間はみな、生まれたときも独り、死んでゆくときも独り、来たときも去るときも、
独りぼっちであるというお言葉があります。
次の世界に旅立つとなったら金も名誉も財産も一切お伴してくれません。
誰でも親や兄弟姉妹、親戚、友人などが死にますと泣きます。
「もう二度と会うことはないのだなぁ、話すこともないのだなぁ」という永遠の
別離の哀しみもありますが、「自分もいつかは帰って来ない遠い旅に一人で
行かねばならないのだなぁ」という涙でもありましょう。
自分だけで自己の死と対面しようとはしません。病気が怖い。老いが怖い。
失敗が怖い。地震が怖い。核戦争、公害、食糧危機、人口問題、
エネルギー危機といっても、その根底には死があるからでしょう。
今日、ガンが一番恐ろしい病と思われています。死に直結するようなガンにかかった
人々は、医師の一挙手一投足、一言半句に一喜一憂し、ある時は死を予感し、
ある時は治るのではないかと希望をいだくと言われます。
人間が生きるためには必ず何かの希望が必要です。だとすれば近く死を迎える
患者にとって、どんな希望が残されるといえましょう。
残り少ない日時に希望をもたせるものがあるでしょうか。
これは未来の無い患者のみのことではないでしよう。誰にでも死は確実に訪れます。
それは万人が直面しなければならない大問題です。誰もこの問題から
逃げきることはできません。この不安の影につきまとわれている人間に、
真の幸福が味わえるはずがありません。独りで死の恐怖に怯え死ぬ人が、
過去も未来も永遠に繰り返されていくのです。
現代人の知性は、死後の無を肯定しながら感情は死の不安に耐え切れず、
死後の世界を肯定しようと、その矛盾に苦しんでいるのです。
…… HP参照はここまでです。

たいへん長くなりましたが
要約すると私とする思考のことを述べてあるのです。
つまり幻想ということです。
繰り返しですが、自分のことを「身体」とほとんどの方が思っているのです。
事実は「身体は身体」です。
では本当の、本来の自分は…?
かいもくわかりませんので、姿無き私・思考・自我にしているのです。
この幻想の相対世界では、身体と言葉・思考・記憶が無ければ
活動していけませんね。
活動していける様に本来の自分が創ったのです。
大自然も動植物もありとあらゆるものを創ったのです。
しかも微細に巧妙に思考の中に入れ込み万全にしました。
だが残念ながら思考がはみ出したのです。
不安、心配、悩み、苦しみ、恐れ、物語を思考が創ったのです。
思考しなければ、それらは元来無いのですから
優々自適に生きていけるようになっているのですね。
実践して見破り“体得”することが生きる目的です。

只の道…淡々と歩く

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない… 前回

   『一なるものを知らなければ
      静動、正否ともにその自由な働きを失う


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「一なるもの」は、それはそれです。
静は静です。動は動です。正は正です。
否は否です。
ですから、これはこれで問題はありません。(笑)

静動、正否は相対です。
静か動か、正か否か…で
相対は問題になるのです。
問題があれば自由な働きができないのです。
『ちょっと待った!』があれば
自由な働きが止まるのですね。

思考入れず、念に取り付かず今、今と歩いていきましょう。

チンゲン采の収穫日です

2015-11-29 10:34:18 | 日記

よく言われている「庭鶏が先か、卵が先か?」ですが、
私(思考)にはわかりません。
山に向かって木魂に聞いてみると「庭鶏が先か、卵が先か」と、
返ってきます。そのとおりですね。(笑)

このことを私(思考)は『戯言』だと言います。
他に正解があるはずだと探し始めます。
これが永遠のループとなります。
エンドレスをご存知のとおり、何万回まわっても終わりがありません。
同じところをグルグル回るだけです。

私(思考)はどこかに正解があるはずだと言っているのと同じです。
エンドスを終わらすには途中をハサミでチョキンと切ればいいのです。(笑)
これは永遠のループだと観ればそこで切れます。

正解はわからないのです。
正解は無いのです。
もちろん間違いも無いのです。
事実には言葉が無いからです。

このことを“体得”して幻想世界を歩めばいいのです。
例えば、体が不自由な方が困っている時は何らかの手助けをするのです。
これには「親切にしなければ」はありません。
「親切なことをして上げた」はありません。
また反対に何らかの援助を頂いた時には感謝の念を持つのです。

何にしてもお互い様の精神で、日々お気楽に過ごすことが
安楽になります。



只の道…淡々と歩く

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす … 前回

    『対極の一方を選んでとどまるかぎり
         一なるものを知ることはできない


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
例えば「これは正しい」とするかぎり
『正解は無い』ということはわかりませんね。

逆に「あの事は間違い」とするかぎり
『間違いは無い』ということもわかりません。
事実には正解も間違いもありません。

しかし幻想世界は何でも有りですね。(笑)
このことを頭で理解してもそのときだけです。
ですから日々、実践して思考をすべて
一旦落とすことです

今日もお客様を回って山へ行きます

2015-11-28 09:39:54 | 日記
《HP参照です、内容を若干私(思考)が
         変えているところがあります》

「過去世」とは、とりつめれば去年であり、昨日であり、前の1時間であり、
吐いた息が過去になります。
「現在世」も、とりつめれば今年であり、今日であり、今の1時間であり、
今の一息が現在の当体となります。
「未来世」も、これも叩けば来年となり、明日となり、1時間先となり、
吸う息が未来となります。
このように仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にあると教えられているのです。
今、今、今に、三世がおさまっているのです。
ゆえに、ただ今の一念を徹見すれば、曠劫の間、流転してきた
自己も明らかになるし、未来の一大事も知らされることになります。
ですから、現在の救いがなくして未来の救いはないのです。
…… HP参照はここまでです。

“今”に過去、現在、未来が収まっているのです。
例えば、小学生の時の過去は記憶にあります。
今朝の食事も記憶にあります。
来年は平成28年です。早いもので、もうすぐですね~となります。(笑)

このようにすべてが“今”にあります。
喋り終わったら消えてありません。
吸っている息は“今”にあります。
吸った息は過去でもうありません。
同じく吐いている息も“今”にあります。
吐いた息は過去でもうありません。

このように今、今と起こっているのです。
ですからすべては“今”に集約されているのです。
今一瞬”以外は何も無いのです。

繰り返し言っているとおり、「在るじゃないか」と言っているのは思考であり記憶です。
幻想ですね。
>ですから、現在の救いがなくして未来の救いはないのです。

その『現在の救い』は幻想から“目覚める”ということです。


只の道…淡々と歩く
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る … 前回

    『心の活動を止めようと努力しても
        その努力がさらなる活動をもたらす


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
止めようと努力しているのが私(思考)です。
私(思考)の努力が、他の活動をまた生み出すのです。

これは無限のループに陥るということです。
この「エンドレス」状態のことは長くなりますので
次回でお話しますね。

努力とは言葉ですから、事実にはありません。
事実は、そのことを只やる!それだけです。
しないときはしない、只それだけです。
私(言葉)に操られているのが幻想状態です。

繰り返しですが“努力しない努力”が大切ですね。



寒ければ寒さの中を只歩く

2015-11-27 09:47:53 | 日記

《HP参照です、内容を私(思考)が変えているところがあります》

お釈迦様の教えによれば、一人一人の生まれた結果が異なるのは 
69億の各人各様に生まれる前の、各人各様、
異なった原因があったからに違いありません。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の厳粛な因果の道理に従って、
私たちの過去世の行為が現在世の私たちの境界を生み出したのです。
当然、「過去世」があるように、私たちには「未来世」があります。
もし「未来世」がないとすれば、因果の道理に例外を認めねばならなくなるでしょう。

たとえば、ある人が二人殺して死刑になったとします。二人殺した罪(因)が
一回の死刑(果)で償われるとするならば、
10人殺した者は5回死刑にならなければなりません。
そんなことはできませんから、もし未来世がなければ、二人殺したら、
あとは何人殺そうが死刑という結果は同じということになります。
 
原因が変われば結果が変わるのが、因果の道理です。
日給1万円の仕事をすれば、100日働けば100万円もらわなければ誰も承知しないでしょう。それが、1日働いても1万円、100日働いても1万円だと言われては
働く人がないのと同じです。
 
原因が変わっても結果は同じだという主張は、三世十方を貫く
「因果の道理」を知らない妄言です。現在世の行為の結果が、
たとえ現在世で現れなくても、必ず「未来世」に現れますから、
「三世因果」は三世十方を貫く真理であると教えられているのです。
「三世因果」の道理が正しく理解されますと、いかに「現在」が大切かが知らされます。
…… HP参照はここまでです。

「三世因果」の道理(法則)
過去世、現在世、未来世の因果がすべてですね。
現在を観れば過去がわかるし、未来がわかるのです。

現在は“今”です。
この“今”は、永遠に“今”ですね、
昨日、1時間前、1秒前は“今”にはありません。
同じく明日、1時間先、1秒先はどうやっても行くことはできません。
ですから“今”以外には何も無いということになります。

「在る」というのは記憶であり思考です。
幻想であるということです。
“今”以上に幸せになると言ってもそれは到底無理なことです。
“今”より将来が悪くなるのでは・・・とは言っても
事実は、将来がありませんので比較はできません。

過去も現在も未来も無く、“今一瞬”があるだけです。
ですから幻想にまみれている現在から
真実の“今一瞬”に目覚める事が大切ですね。

只の道…淡々と歩く
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

外界に巻き込まれてはならない
空という概念にも、とらわれてはならない … 前回

  『一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
      そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
一なる境地”とは涅槃寂静の地ともいえます。
無であり、空であり、真実です。
これは例えです。何も無いので例えで述べるしかありませんね。

『誤った見解』は思考です。
ですから“一なる境地”に入ると、思考(見解)も記憶も…何もありません。

この幻想世界はすべて在りで相対世界です。
好きも嫌いもあり、強い弱いもあり、
上下あり、寒暑あり、苦しみもあり喜びもあり、
生も死もありでキリがありませんね。
このことが苦悩を生む要素です。

例えば、好きも嫌いも無ければ苦悩は生れませんね。
在るから生まれるのです。(笑)
正義を強調するから戦いが生まれるのです。
事実、正義などどこを探してもありません。
もちろん間違いなどもありません。

さぁ~幻想世界から脱出しましょうね

W滑車を2台使用して木の根を抜いています

2015-11-26 09:32:03 | 日記
自己からの脱却、これに近づくとこれほどお気楽な事はありません。
逆に「自己からの脱却、何言っているんだ?」と
私(思考)に成りきっている方は
さっぱりわかりません。

自我からの脱却と言っていいのかもしれませんね。
自我そのものから離れなければ、
完全自己中心になりますから何が起こるかわかりません。

例えば戦争です、テロもそうです。
国のトップが自己中心であれば、あの領土もこの領土もわが国のものだとなり、
回りの関係国と戦争になります。

テロを起こす集団のトップが、この考えが正しいとなれば
それにそぐわなければすべて排除に向かいます。
大量虐殺が正しいとなるわけです。
なんと恐ろしいことでしょう。

私(自我)が強固なかぎり、このようなことが誰だって起こり得るのです。
ですから私(思考)〓自己を落とすことです。
本来は私(思考)は無く“涅槃寂静”ですから、
自己を落とすことによってそこに近づいていきます。
それには“実践”で明らかにするしかありません。

『多くの方がやるといいね』はありません、あなたしかいないのです。
本来にはたくさんの方は存在しないのです。

もちろん幻想世界は約60億人の人口です。
私(思考)が数えたわけではなく幻想の情報です。
ですから真実には外界はありません。
内面に意識を向け続ける事ですね。

それが“実践”です。


只の道…淡々と歩く

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“”で明らかにしていってくださいね。

ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ… 前回

   『外界に巻き込まれてはならない
      空という概念にも、とらわれてはならない


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
真実には外界はありません。
在るとすれば内面でしょうが
ひとつ”と言う言葉で集約されています。

この私(思考)の世界は他人が居る世界です。
ですから私(思考)の世界に惑わされてはならない
と教えられているのです。

また『空』がどこかに在るわけでありません。
『空』という概念は、例えですから
お間違いないようにしてくださいね。