只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

昨日は久しぶりの雨でした

2015-10-31 09:46:03 | 日記
幻想することなく「今、只(無思考」」で過ごすには、
心を動かさないことです。
出た念に取り付かないことです。

後ろを振り向かないことです。
「あれは何だったかな~」これが振り向くことです。
過ぎ去ったことを気に掛けないということです。
それはもう無いのです。
無いものは無いのです。

今この瞬間が真実で無思考です。
無思考以外は幻想です。

「思い出さないと都合が悪いんだよ~」と言われるのは、
これも思考です。
これが在る以上、奥にいくほど次第に苦悩になっていきます。
繰り返し言っていますが、事実は「思い出さないと都合が悪いんだよ~」は
思い出す必要はまったく無いのです。

私(思考)は忘れが多いのですが、
大事なことはメモを取っておくようにしています。
しかし、それを観るのも忘れるときがあります。(笑)
今、今、今のそれに成りきる練習ですから、
今以外を入れないようにしていると
過去の入る隙は少なくなってきます。

ですから思考する力を完全に無くしていくのです。
それは、思考しないことです。
思考は幻想です。
思考では何も出来ないのです。

思考で車を動かすことはまったくできません。
車を動かすにはキースイッチを手で回すのです。(笑)
思考は頭の中でギャーギャー喋るだけです。(笑)

とにかく思考を完全に道具として使うだけに
していきましょうね。



只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

    『無眼耳鼻舌身意』
  感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身もありませんし、
  意(意識・思うこと)もありません  (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
思考という幻想で観れば、
眼・耳・鼻・舌・身・意はあるのですね。

ですから、真実には無いということです。
このように文字で書くとわかりやすいですね。
真実は無思考です。
思考が無いということです。

真実は何が在るか無いか、何もわからないし、
思考を超越した『今この瞬間』です。

この幻想世界で眼・耳・鼻・舌・身・意が、
私(思考)にはありませんと言ったら
可笑しく見られますのでご注意の程を・・・(笑)

この幻想世界は真実であるとしている人が
ほとんどですから無闇に言わないことですね。
この幻想世界から目覚めたい方は
言っている事がわかるのではないでしょうか。

特に「無い苦悩」を抱えている人は
事実には苦悩は無いということを
実践で『体得』されることですね。

繰り返し言うようですが、このことは
思考では1万年たってもわからないのです。

野菜作りもだんだんと要領がよくなってきます

2015-10-29 10:03:05 | 日記
私(思考)は、「このようになりたい」と
未来の夢(幻想)を描いているのです。
でも今しかないから、未来が幻想になり
解決が付かないのです。

本来は未来、過去、現在はどこを探してもありません。
このように『自覚』すれば一発で解決ですね。

つまり不安、心配があるのは、幻想の中に入っていると
いうことです。
思考と一体化するから不安、心配になるのです。
それは思考が不安、心配だからです。

わかりますか?
考えていることが不安な事であれば、それは考えが
不安に移っているということですね。
このことが思考と一体化しているということです。

ですから念がでたら、そのままで念を相手にしない
ということです。
常に幻想(自我)と離れていることです。

漠然と思考しているのを「幻想・自我」と
『自覚』出来ればいいのです。

その出来事はその出来事です。
その出来事はそのとき始まって終わっています。

厳密に言うとそれがそれで、出来事も無く、
始まりもなく終りもなく只、今この瞬間です。
あらゆることのすべては只、今この瞬間、
無思考で完結しています。

言葉で表わすと“真実は無思考”と言えます。

過去のことは思考の創作です。
過去の事は自分の事ではありません。
過去の事は自分の事だ、としているのは思考です。

ですから過去は何ら関係ないのです。
しかし何十年も自分と一体化してきた思考を
引き離すには並大抵の事ではありません。

少しずつ引き離すのがこの“只の道”です。




只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

   『是故空中無色 無受想行識』
  これゆえに空の中には 、肉体も、
  感じたりする精神も、無いのです (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「空」は「空」です。

「肉体」は「肉体」です、これは事実です。
「感覚、精神」は「感覚、精神」です、これは事実です。

では『真実』を言葉で例えると、
「空であり、無であり、神仏であり、
宇宙であり、自然である」のです。
例えですから何と例えてもいいのです。

「空」は「空」です、これは真実なのです。
チンプンカンプンでそれがわからないから
実践で『体得』するしかないのです。

繰り返し述べていますが
思考では永遠にわかりません。
それは思考の無いところに現れるからです。

それを、例えて言いますが
大いなる自分』ということです。
遠くに存在しているのでなく、

今、ここに只、存在しているのですね。

山地の畑にする構成がややできました

2015-10-28 11:21:35 | 日記
「真正直者は馬鹿をみる」ということがあります。
「正直は良い」というのが一般的な見方ですが、
いかがでしょうか。

片方には「真正直者は損をする」がある以上、
道徳的にはわからなくなります。

真正直は良い」、「不真面目は悪い」が一般的な見方です。
その一般的な見方の中には「真正直は損をする」、
「不真面目でも良い」もあるのです。
真正直・不真面目という言葉に思いがあれば、
善いとか悪いにしっかりと想念が付いているのです。

ですから、そのどちらが「正しい」のかと言うと
永遠に決められないのですね。
なぜ決められないのか?と、言われそうな気がします。(笑)

それは「真正直も不真面目も事実には無い」からです。
「真正直や不真面目」は思考であり・自我ですね。
私(思考)は生きている以上、真正直も不真面目にも拘らず
その時その場で、淡々と歩いていきます。

繰り返し言いますが「良い事も悪い事」も
同じ事なんですね。
裏も表も一緒です、表裏一体です。
ですから良い事も悪い事も無いのです。

頭脳が良い事と悪い事を分別(創作)しているのです。
頭脳が思考・分別する癖を強固にしたのです。
しかし、頭脳が強固に創り上げた思考癖を
次第に弱めていけば分別(創作)しなくなります。

人間の頭脳が分別(創作)しなければ、すべてはひとつです。
そしてお気楽になっていきますね。


只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。
  
  『不生不滅 不垢不浄 不増不減』
  生じることも、滅することもありません。 
  汚いとか美しいということもありません。
  また、増えることもなければ、
  減ることもないのです。  (HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
私(思考)から観たらさっぱりわかりませんね。

事実から観ればよくわかるのです。
そう、文章のとおりです。(笑)
何と表わそうが、意味無く自由自在です。

幻想界の私(思考)は
すべて「生じる、滅する」と思っています。 
「汚いとか美しい、増えるとか減る」と思考しています。

では思考を無くせば
生じることも、滅することもありません。 
汚いとか美しいということもありません。
増えることもなければ、減ることもありません。

しかし生きているのですから
思考を無くすということはできませんね。
思考は本来「道具」ですから
必要なとき使って
使用が終わったら直して置きましょうね。

直して置いているときの状態が
生じることも、滅することもありません。 
汚いとか美しいということもありません。
増えることもなければ、減ることもありません。
ということです。

無思考”ということですね。

淡々とやっている早朝です

2015-10-27 09:54:25 | 日記
禅の教えで「薪が燃えて灰になる」があります。
薪が燃えて灰になる…はたしてそうでしょうか?
この続きは次回で・・・
と、ありましたね。

ほとんどの方が「薪が燃えて灰になる」は
当たり前じゃないかと言われます。
しかし思考は「薪が生燃えにて灰にならない」こともあるとも言います。

そして詳しいことを言う思考は
『薪を何年も乾燥させて、枯葉と一緒に燃やすと灰が取れるけど、
やはり薪の芯が燃え残る場合がある』と、言います。

しかし事実は、間違いなく「薪のときは薪」です。
「燃えるときは燃える」です。「灰のときは灰」です。
これには思考が入らないのです。

思考が入ったら「薪が燃えて灰になる」のです。
また書いている通り、いろいろな幻想が出てくるのです。

今、今が間違いなく事実です。
ここを『自覚』して淡々と歩いていきましょう。

只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

    『受想行識 亦復如是』
  思ったり、意識したり、
  考えたりするのもまた、空なのです。(HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
ご存知のとおり、本当は思考も意識も無いのです。
ぐっすり眠っているとき思考する事はありません。
無意識ですね。

でも身体は、くまなく静かに活動しています。
心臓がひと休憩というわけにはなりません。
眠っているから血液の流れが止まることはありません。
意識しなくても活動するようになっています。

思考、意識は必要なときに「」から
出てくるようになっています。
ですから「」から出てくるのは「」です。

例えで言いますと
空から出てきたのは「可愛がっていた猫」とします。

この猫は1年前に病気で亡くなりました。
以上です!…で、終われば思考になりませんけど・・・

しかし、そうは問屋が卸さない、いや間違いました思考が許さないのです。
”から出てきた「猫」は幻想です。
いくら生きているとき可愛がっていた猫でも幻想です。

ですから「可愛がっていた猫」に取り付いても帰ってきません。
幻想に取り付けば苦悩になっていくのです。
なぜ、帰って来ないんだろう?と、思考するのです。(笑)

生きていれば…と、事実がまったくわからない
状態になるのです。
過去のことが幻想になり、それを事実と完全に錯覚するのです。
過去である幻想は“何も無い空”ですね。

迷いに入らないために、
ここをはっきりと『自覚』することが肝心です。


朝の野菜の苗植え、淡々とやっています

2015-10-26 09:21:40 | 日記
事実は、金持ちは金持ち、貧乏は貧乏、自分は自分
他人は他人です。

ですから『想念が付いていない』ということです。

「金持ちはいいな~」は、事実には無く
言っているのは思考です。
「私は山川花子です」は、事実には無く
言っているのは自我です。
「貧乏はつらい」は、事実には無く
言っているのは思考です。
「あの人は厳しい」は、事実には無く
言っているのは自我・思考です。

ですから《想念が付いている》ということですね。

繰り返しますが『りんごはりんご』これが事実です。
『猫は猫』これが事実です。
『東京は東京』これが事実です。
『辛いは辛い』これが事実です。

ですから『想念が付いていない』ということです。

そして、
「りんごは美味しい」は、事実には無く
言っているのは自我・思考です。
「この猫は可愛い」は、事実には無く
言っているのは自我・思考です。
「東京のスカイタワーに行きたい」は、事実には無く
言っているのは自我・思考です。
「辛いけど頑張る」は、事実には無く
言っているのは自我・思考です。

ですから《想念が付いている》ということですね。

真実には、金持ちもなければ、貧乏もありません。
私もいなければ他人もいません。
言葉が無く、それがそれです。
思考が無く、これがこれです。
何も無く、すべてはひとつです。

真の自分”は、この自然と融和しています。

ですから“真の自分”は大安楽の境地ですね。


只の道…淡々と歩く

お釈迦様の教えである『般若心経』の一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、実践で明らかにしていってくださいね。

『色即是空 空即是色』
物質は空であり、空は物質であるのです(HP参照です)

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?

こんな事、思考でわかりませんね。
真実から観れば
物質は空であり、空は物質であるのです。

同じことを言っているだけじゃん!
前日のブログと同じじゃん!と言われそうです。(笑)
すべては空であり、無であり、自然であり、ひとつであり
神仏そのものであるのです・・・このように『例え』で表すことしかできませんね。

物質は空であり、空は物質であると『例え』で表すことしかできません。
真実から観たことは『例え』で表すことしかできません。

繰り返しますが、“真実”には言葉がありません。
思考がありません。もちろん、話すとか聞くとかも一切ありません。
ですから体得する以外は何も無いのです。

外国に行かれた方がそこには、
こんな美味しい食べ物がありましたよ~と、
百回教えてもらっても有りつくことはできませんね。

やはりその外国に行って、その食べ物を口に入れるしかないですね。
そこで初めて「あぁ~美味しい」となるのです。

この様子が“体得”です。