只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

私(思考)は苦労も楽も無く淡々と生きています。笑

2016-11-30 08:41:58 | 日記

山の植物に赤い実が垂れ下がっています。
風が吹いてくると、小さな赤提灯が揺れるみたいで
目を楽しませてくれます。笑




【あの人は怖いと思わないことです。
 考えれば考えるほど怖くなってきます。
 思い考えなければ“あの人はあの人”です。】


「善悪は無い」と言っていますが、例えば他人に暴力を
振るったりするのは、もちろんこの世界では悪い事です。

身体の不自由な方に手助けすることは
善い事です。

しかし、事実は「暴力は暴力」で行ってはいけないことです。
その事がしっかり頭に入っていればそれでいいのです。

「手助けすることは手助けすること」で、その状況を
見て行えばいいのです。

でも「思考自我」は、「暴力は悪い」が先に出てくるのです。
それは「暴力をしないのが善い」が付いているからです。

同じく「思考自我」は、「手助けしないのは悪い」が先に出てくるのです。
それは「手助けすることは善い」が付いているからです。

逆も然りで、善い悪いが状況によりクルクル回って、
最終的に「思考自我」は訳がわからなくなるのですね。(笑)

ですから、私(思考)に「善悪」が無ければ「思考癖」も
無いのです。

事実は“今この瞬間・無思考”しかありません。
ぜひとも「善悪」の無い“”に目覚めるよう
絶えず“只なる実践”の継続です。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


頭での理解や分別ではどうにもならない別世界が心であり、
 自分では解決できないことを本当に知ることです。
 それが出来る実直さがあって初めて道が開けるのです。
 つまり適正な自分の現況把握があってこそ、根源的な解決の道を
 求めようとする求道心が起きてくるのです。
 ちょっとした心の作用ですが、
 これが有るか無いかで人生は大きく変わるのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
残念ながら、心配、不安、苦悩、恐れ等は
自分では解決できないことです。

ましてや他人が解決できるものではありませんね。
ですからどうすることも出来ないところに
落ち着き、そこから出発するのです。

“只なる実践”という“光輝な宝刀”で
目には見えない「思考自我」を切り落とすしかありません。

この「思考癖」は空から浮かんだ念に飛び付く癖です。
簡単に飛び付くから除々に苦悩になっていくのです。(笑)

ですから飛び付かないよう、目には見えぬ
光輝な宝刀”で切り落とすのです。

これがあるから“真実に目覚める”ことができるのです。


今週はキャベツの苗が大きくなりましたので山畑に植えます。

2016-11-28 07:22:03 | 日記

【これは良い事、あれは悪い事と決めると
 問題が起こるのですね。】


子供が学校から帰って来ないな…と心配してもいいのです。
アッ、帰って来た!と安心してもいいのです。

近くの地方で地震があると、ここは大丈夫だろうか…と
不安になってもいのです。
それから2~3日過ぎて、その不安を忘れてもいいのです。

遊びに出かけて途中で、家に鍵を掛けるのを忘れた!と
思い出してもいいのですね。

ですからどんなことがあってもいいのです。
ここだけの、事実の“今”から離れなければ問題は
まったくありません。

しかし、事実の“今”から離れてくると
除々に問題が出てくるのです。

なぜなら心が浮遊して事実の“今”にいないからです。
事実の“今”にいないということは、心が幻想の中に
入って苦しむということになります。
心が幻想から連れ出されるとも言いますね。

真心”はどこへにも行かず、ここに居て
煌々とひかり輝いている存在です。

それが“真の自分”ということです。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


何事も問題を解決するには、その元である確かな原因を
 把握しなければならない。でなければ改善のしようがない。
 原因が分からなければ解決は有り得ないと言うことです。
 修行も同じです。雲を掴むような修行では、結果としての迷いも
 苦しみも解決できる筈はないのです。ではどうするか。
 まず迷っている自分、囚われ苦しんでいる自分を、
 素直に認め自覚することからです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
繰り返し述べていますが事実には問題は無いのです。
ですから悩んでいれば、悩みの根本を突き止めて、
それに対処すればいいということです。

ほとんどの方がおわかりのとおり、それは「思考癖」ですね。
この「思考癖」を落とさないかぎり、人生を
終えるまで引き付いたままであるのです。

じゃ、「思考癖」を落とすぞ!と息巻いても、
息巻いているのが「思考癖」ですからどうにもなりません。

どうにもならないなら、どうすることもできないじゃないか、
と言われるのが事実ですね。

ですからどうもしない“只なる実践”をするだけです。
それは、空から浮かんだ念に取り付かず、
只“スルー”するだけです。

そうしていくうちに念が出てこなくなり、
念が出てこなければ想念にならず、創作は出来なくなり、
”しかなく今、今、今の流れになるのです。


雨となりましたね、何もすることなくゆったりとしています。笑

2016-11-27 11:45:40 | 日記
自然薯のむかごです。この約200個のむかごで
来年は種芋を作る計画です。
うまく育てばいいなと楽しみにしているところです。笑




【儲け話は必ず裏があるのですね。
 儲け話が無ければ、儲けることも
 儲けないということもありませんね。】

1日に浮かんで来る念は相当数あり、数える事ができません。
ですが、この今の心はまったく自分ではありません。

過去世です、過去の事で浮遊する心ですね。
これをパンドラの箱と意識すれば、浮かんで来る念に
取り付くことはありません。

例えば「あの人は意地汚い」とか「約束を守らない」、
「返す金を返さない」とかのパンドラの箱が出てきたとします。

そのパンドラの箱は何が入っているかわかりません。(笑)
興味深々で開けて観たくなるのが世の常です。

ですから開けて観ると、このパンドラの箱の中身は
『なぜだろう?』や『どうしてか?』がぎっしり
詰まっているのです。(爆笑)

更に奥には「復習心」や「被害心」や
「自己を責める心」等が詰まっているのです。

つまりパンドラの箱を開けると「解決できない迷い」に
入って苦悩になるということです。

そうならないためにも、“只なる実践”は見て“見ない”、
聞いて“聞かない”、浮かんで来る念を“スルー”
することで何もしないことです。

そして今、今、今と“今”を決して離さないことが
只なる実践”です。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


要するに参禅弁道は道理を離れて、真摯に実践することです。
 実践は只管功夫することです。只管功夫に只管打坐と只管活動があり、
 それを誤らせないためには、どうしても参師聞法が不可欠なのです。
 参禅弁道は参師聞法と只管打坐が中心だと言うことです。
 かくして法を自由にする事が出来るのです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
真実は“事実に目覚めた”人から教えを
貰うのが当たり前です。

そしてそのとおりに自分での“只なる実践”が必要ですね。
それだけですので“今を離さず只、やる!”だけです。

何時やるか、明日からやるか、落ち着いてからやるか、
忙しさが終わってからやるか、ちゃんと整ってからやるかです。

でも、残念ながら人生は待ってくれませんね。
そうです、“今この時”しかありません。

今日も、山の土を振るいに掛け畑作りです。

2016-11-26 09:45:43 | 日記
山の安納芋や自然薯を絶えず見守っている
スウェーデン国から来た人形さんです。笑




唯一実存するのは“純粋意識”の“真の自分”です。
“純粋意識“は只眺めているだけです。

意識がありませんので無意識です。
認識することがありません。
何も無く“只、ひとつ”なのです。

そして思考自我を、何も一切しないで“只、観ている”
のが純粋意識の“真の自分”です。

“真の自分”以外は、すべて実体というものが無いのです。
空から浮かんで来るすべての念は、取り付く事さえなければふっと出てきては、
また消えていくものです。

身体も、思考も、感情も、感覚もすべて空から浮かんで来るすべての念と同じく、
一時的な現象でしかありません。

縁が重なって“今この瞬間”に起こっているだけであり
本来、実体というものが無いのです。

“無いものは無い” 実体というものが無い、これは同じで
その本来を心配や、不安、苦悩、恐れたりしているのが
実体がない思考自我です。
つまり幻想ということです。

“只なる実践”は実体がない幻想自我を、“実体が無い”と
腑に落とすことにあるのです。

本来の今の自分が、どんな状況であったとしても何にも問題がまったくありません。
「困った事だ…」と思っている自我が、自分の中にいるだけです。

例えば、幻想であるアメリカのクリントンさんが
「負けて悔しい!」と、自分の中で言っているだけです。(笑)
ですから幻想と同調しなければいいのですね。




只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


全ての祖録はこの上で書かれておりますから、
 理論や言語や概念や想像や観念では、手の付く世界ではないのです。
 謂わば知性や観念的な計らいでは心の諸問題は解決することは出来ないのです。
 根本が全く違い次元が全然違うからでです。
 そのことを知らせようとして物されているのが経典であり祖録であり
 法話なのです。それを如実に実行するのが修行であり参禅弁道です
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
“只なる実践”とは「思考自我」を落とすことです。

汚れは雑巾で拭けば落ちますが、「思考癖」は目には見えない、
どこに在るかわからない実体のないものです。

ですから、この浮遊する「思考癖」を落とすことは
容易なことではないのですが、昔と違ってありがたいことに
祖録であり法話が、身近に観る事ができるようになったからです。

この近代のシステムに感謝しながら、お釈迦様の
有難い教えを“只なる実践”で会得するのです。

しかしこの“有難い教え”は、聞いたり読んだりだけでは不十分なのです。
繰り返し述べていますが、この“有難い教え”に沿い
空から浮かんで来る念を“スルー”することの実践、
取り付いたらその想念を“只、観る”実践です。

そこには文字、言葉、イメージ等は一切無いですから
例えで“只なる実践”と言っています。