只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

暴飲、暴食は身体を壊すもとですね。

2017-06-30 08:49:00 | 日記

浮かんでくる念、思いに取り付いているのが、私(思考)の
人生になっているのです。

本来には人生は無く、生きることも無く、死ぬことも無い
のです。

ですから、空から浮かんでくる念に取り付かなければ、
自然のままで何も問題はありません。

生きる死ぬはすべて頭脳の創作で、他にはどこにも
ありませんね。

ですから、嫌ったり憎んだりすということも“無い
のです。

好きなことも嫌なことも“無い”のです。

業績が上がることもなければ下がることも“無い”のです。

臭いことを避けたり、耐えたりする必要はさらさら
“無い”のです。

この様に本来には“無いものは無い”というのが
事実です。

もう、何も言うことはありません~(笑)

すべてその時その場に任せなさい、すべてあるがままに
任せなさい、思いや考えを避けてもならない、
思いや考えに取り付いてもならない、すべては自然の遊びです。

今この一瞬”がすべてですね。

弛まぬ“只なる実践”がそれを明かにしてくれます。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。


お三と言う少女は、白隠禅師が主人に説法しているのを立ち聞きして、
「理屈を付けず、常に心を空っぽにして、何でも一心不乱に「只」やりなさいよ」の
 一句に触れ、「それなら自分にもできそうだ」と早速実行に掛かった。
 やることなすことに注意を払い、片時も油断せずに一心不乱、「只」やっていた。
 ある日、仕立物に没頭してとうとう朝になった。時を忘れ自分を忘れて
 本当に「只」していたのだ。一番鶏の「こけこっこー」を聞いた途端に解脱した。
 白隠禅師下の女傑として有名である。努力の結果である。
 努力は人間の価値を決定する要素なのだ
。』


いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
「理屈を付けず、常に心を空っぽにして、何でも一心不乱に
「只」やりなさいよ」が“実践道”です。

この様に、何も難しいことをするのではなく、
お三と言う少女の様に、どこまでも“只、やる!”と
いうことです。

つまり「思考癖」を入れないことです。

真実は“只、今”ですから、今、今、今とやっていくと
いうことです。

何も難しい学問を学ぶことではなく、難しい容易いを
超えた“只、今”を体得することですね。

今朝も曇り空ですが、縁とともに変化していきます。

2017-06-29 07:52:59 | 日記
山畑に雨水を溜めておく200ℓドラム缶です。
ところ所に3缶あります。梅雨のおかげですべて満水となりました。
作業後に手を洗ったり野菜畑に掛けたりと、
梅雨後にはたいへんありがたいものです。笑






【前もって言っておきますが、このブログは私(思考) の戯言ですから、
このことを信じないで実践”で明かにしてくださいね。】


真実”とは何でしょうか?

そこには何も在りませんので、言葉では『例え』でしか
表現することができません。

それを見れば、只それがそのまんまで、それが“真実”です。
そこには認識がありません。
それを認識すれば幻想です。

言葉で表すと月は月で、まんまるで、三日月でも月です。
欠けていると頭脳が判断し、三日月としているのです。

“真実”の目で見れば、そのまんまの丸い月で言葉もありません。
ですから綺麗な月も名月も存在しません。
目を閉じたら何も在りません。

しかし一秒前の過去が幻想として浮かんできます。
それは空から浮かんできた念に取り付くからです。

ぐっすり眠っていれば、目を閉じた時から目を開けた
時間の間隔は在りません。

8時間眠ったとしても5秒ぐらいと感じるかもしれません。
ですから時間というものは無いというに等しいです。

耳に鼓膜があったとしても、ぐっすり眠っていれば
人の話し声は聞こえません。

ぐっすり眠っていれば雷の音も聞こえません。
つまり脳に響かなければあらゆるものは、すべて在って
無い”ということになります。

あの人と意見が合う合わないは、我見同士だからです。
個人が個人の意見を持っているからで、その意見は
幻想なのです。

この様にしっかりと、「幻想」と“只、今”を見極めて
おくことがお気楽になってくるのですね。

心がぶれることなく、いつも淡々と…が基本です。

2017-06-28 09:21:45 | 日記
昨日は雨の中、山畑の自然薯のむかごからの、
蔓を這わせるためのネット張りでした。
鼻歌まじりの作業も面白いものです。笑





『願望を持て!』…なんと響きのいい言葉でしょうか。

しかし『持て!』と言っても、事実に“無い”願望を
持つことは出来ません。

「それはそう言ってもな~」があるかぎり、幻想から
抜け出すことは無理ということです。

これがなぜか?ということは、そう言っているのが
「思考自我」だからですね。

問題が起きてくるのは、私(自我)が願望に囚われている
からです。

『願望を持て!』は『願望を持て!』で事実なのです。

それで意味無くお終いということです。(笑)

ですから“今この瞬間・無思考”が真実ですと、
言っているのです。

様々な会社等では「業績上げろ!」とハッパが掛かっている
でしょうが、まず永遠に上がることなどありません。

もちろん下がることもありません。

「業績が上る、下がる」は、すべて「思考自我」の見解と
いうことです。

只(上下)の結果の業績に、囚われることなく淡々と
やっていくことが“只の道”です。

損する,儲けると想わないことです。これは無いからですね。笑

2017-06-27 08:42:54 | 日記
2週間前に、プランターの安納芋の蔓を全部山畑に植えたのですが、
プランターに種芋が残っていたので、またこの様に苗が大きくなってきました、笑
昨日、小雨の中で今度は種芋ごと山畑にこの様に植えました。





頭の中で勝手に妄想する「思考癖」と仲良くしないのです。

「思考癖」は心の癖ともいい、仲良くしたら永遠に
苦しさが付いて回るようになります。

もちろん、喧嘩したら余計に大変となります。(笑)

ですから繰り返し述べていますが、それを“只、眺める
のです。

相手にしない、無視する、知らん顔をする、さわらない、
触れないと幻想は自然に消えていくのです。

頭の中の心配、迷い、不安、苦悩、恐れの幻想は、
現実には“無い”とはっきりとわかるのです。

そうなれば幻想の私(自我)は、行き場が無くなり
今に従うことになるのです。

つまり瞬間、気が付けば「心の癖」は消え去ると
いうことです。

この様に“只なる実践”を持続していれば、必ず
今に目覚める”ときが訪れるのです。

それが嘘か誠かなど勘ぐらないで“只、やる!”
しかないのです。

人生などアッという間ですから、時を無駄にしないで 
今、今、今と只の道を歩きながら、“真実”に還り着いて
くださいね。

何をおいてでも“只、今”ということです。

2017-06-26 09:55:40 | 日記
家にあるサボテンを2本切って、4月頃持って来て山に植えたものです。
花がもうすぐすると咲き始めます。





真の自分”しか、この世には“無い”のです。
たった“ひとつ”の存在です。

「何を戯けたことを言うか!」という「思考自我」が邪間
するかぎり、永遠に“真の自分”は闇の中ということです。

「思考自我」は過去で幻想です。それは私(思考)を自分と
信じているものです。

この現実世界では必要時には私(思考)を使い、必要無い時が
ほとんどですから忘れ去って置けばいいのです。

それが只、淡々とやるということですね。

もちろん、このブログを書くときは私(思考)を使っている
のです。書き終わったら思考は必要ありませんので、
”やることを只、淡々とやっていくだけで、
他は何もありませんね。

これが、身体が自然と一体となっているということです。

この状態が動植物という純粋なもので、人間だけが思考と
いう機能を与えられているのですから、必要なときだけ
使うのです。それにはどこにも間違いはありません。

しかし幻想の「思考自我」がひとり歩きしたら、必ず
問題が起こる様になっているのです。

この頭の中で勝手に妄想する「思考癖」を、
消し去るのが弛まぬ“只なる実践”の持続です。