浮かんでくる念、思いに取り付いているのが、私(思考)の
人生になっているのです。
本来には人生は無く、生きることも無く、死ぬことも無い
のです。
ですから、空から浮かんでくる念に取り付かなければ、
自然のままで何も問題はありません。
生きる死ぬはすべて頭脳の創作で、他にはどこにも
ありませんね。
ですから、嫌ったり憎んだりすということも“無い”
のです。
好きなことも嫌なことも“無い”のです。
業績が上がることもなければ下がることも“無い”のです。
臭いことを避けたり、耐えたりする必要はさらさら
“無い”のです。
この様に本来には“無いものは無い”というのが
事実です。
もう、何も言うことはありません~(笑)
すべてその時その場に任せなさい、すべてあるがままに
任せなさい、思いや考えを避けてもならない、
思いや考えに取り付いてもならない、すべては自然の遊びです。
“今この一瞬”がすべてですね。
弛まぬ“只なる実践”がそれを明かにしてくれます。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『お三と言う少女は、白隠禅師が主人に説法しているのを立ち聞きして、
「理屈を付けず、常に心を空っぽにして、何でも一心不乱に「只」やりなさいよ」の
一句に触れ、「それなら自分にもできそうだ」と早速実行に掛かった。
やることなすことに注意を払い、片時も油断せずに一心不乱、「只」やっていた。
ある日、仕立物に没頭してとうとう朝になった。時を忘れ自分を忘れて
本当に「只」していたのだ。一番鶏の「こけこっこー」を聞いた途端に解脱した。
白隠禅師下の女傑として有名である。努力の結果である。
努力は人間の価値を決定する要素なのだ。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
「理屈を付けず、常に心を空っぽにして、何でも一心不乱に
「只」やりなさいよ」が“実践道”です。
この様に、何も難しいことをするのではなく、
お三と言う少女の様に、どこまでも“只、やる!”と
いうことです。
つまり「思考癖」を入れないことです。
真実は“只、今”ですから、今、今、今とやっていくと
いうことです。
何も難しい学問を学ぶことではなく、難しい容易いを
超えた“只、今”を体得することですね。