只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山畑も少しずつ開けてきました

2015-12-30 07:59:50 | 日記
今年は本日でプログを終了させていただきます。
明けて1月4日から再開いたします。

お休み期間中、温泉でもゆっくり浸かりのんびりしたいと思います。
身体を柔軟にして血行の流れをスムーズにすることで
健康を保てるのではないかな~と
している私(思考)です。(笑)

そして2~3年したら後天返りができるよう
身体を柔軟にしていきます。(笑)
今現在も、かなり腰回りが柔らかくなっていますよ。
この調子で少しずつ後天へとやっていきます。(笑)

またカラオケに行くことはまだしていませんが、
下手な歌声も少しずつ練習すれば改善していくのではと思っています。
これも2~3年したら慰問に出かけるようになるのではないでしょうか。(笑)

練習場所はすべて社用車の中です。
とにかく「思考入れず」ですから“実践”を兼ねています。
歌に没頭ですね。

営業回りは社用車に乗っている時間が、
トータル5時間ぐらいですから相当歌の練習になります。(笑)
最近はビブラートの練習も車の中でやっています。

そのひとつが、唇を約20秒間震わすのです。
最初はまったくできませんでしたね。
ぶるっ…、ぶるっ…、ぶるっ…、で終わりです。(笑)
今では、ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる~
と約20秒間何回も震わしています。

この様に人生は意味なくお遊びですね。(笑)


只の道…淡々と歩

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

法(存在、現象)は一つであって多数ではない… 前回

  『区別は無知の愛着から生じる
     心をもって真理を求めることは 最大の過ちだ


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
好きや嫌いは無知の愛着から生じるのですね。
無知の愛着は仏教では煩悩と言っています。
思考が働くことです。

これには善いとか悪いはありません。
思考が働くことは事実が消え去ると言うことです。
何かを求めることは、私と言う思考が働くことです。
ぐっすり眠っていては思考が働かないので
求めることはできません。

思考は幻想ですね、「りんご」を思ってもりんごはありません。
ですから「りんご」を求めても幻想だから手に入ることなど無いのです。
そして手に入らないから苦悩するのですね。(笑)

ですから〇〇〇を求めても幻想だからどうしょうも無いのです。
どうもできないのです。
どうもできないことを、出来るがごとくするのが
最大の過ちですね。

真理は今この瞬間・無思考”です。

私(思考)から、年末に一言です。
人生を過ごしている以上、平安な日々を送ることが大切です。
今後も同じことの繰り返しですが心配、不安、苦悩、恐れ等は
まったく存在していないということを書いていきます。

それがわかるまで、わかりづらいでしょうが
このブログを読み続け“実践”してください。

では穏やかな安心に満ちた新春をお迎えくだいませ。

今日は山にナシの苗木を植えます

2015-12-29 08:36:16 | 日記
本年もお世話になりました、来年もよろしくお願いします。
とやるのが私(思考)です。

本来の世界は今この瞬間です、無思考です。
ですから今年も来年も真実にはありません。
もちろん心配、不安、苦悩、恐れ等もありません。

「いいなぁ~苦悩がないなんて…」とやるのが私(思考)です。
ですから私(思考)を忘じきる“実践”をしないかぎり、
いつまでも苦悩が付いて回ります。

「いいなぁ~、私には無理だ…」を無くす、
乗り越えれば“無いものは無い”とわかる時が訪れるのです
ツベコベ言わず“実践”するしかないのです。

この「りんご」は美味しいか、わかるにはツベコベ言わず口に入れて
食べる”しかありません。
「りんご」を見て、これは美味しそうだは幻想です。(笑)

記憶ですね。
すべて記憶で判断しているので事実と間違います。
事実は口に入れてモグモグした味です。
言葉、記憶は幻想です。

幻想は苦悩の中にいるのです。
そこは事実ではないからです。
ですから話せば話すほど苦悩に近づいてきます。

幻想を見破るために“実践”するのです。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

賢者は目的を求めて努力しない
愚者は目的を求めるために己を縛る… 前回

  『法(存在、現象)は一つであって多数ではない

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
思考がなければすべては“ひとつ”ですね。

私(思考)に繋がるといろんなものがあります。
同じく、私(思考)から世界を見ると
多くの人がいます。

私(思考)が居ないところから観ると
世界が“ひとつ”です。
これは頭脳の成せる技です…。(笑)

頭脳が活動しとけば私(思考)に成るのですね。
頭脳が活動しなければ私(思考)が居ないということです。

私(思考)は苦悩になることを創作したがるのです。
創作したものを事実と信じて疑わないのですから
完全に苦悩になっていくのです。

また楽しいことも創作するのです。
これも事実と信じて疑いませんので
苦悩になっていくのです。

創作しているものを幻想と見破るのが“実践”ですね。


30分でも思考入れないよう常に実践です

2015-12-28 08:10:00 | 日記
来年から禅の問答を載せていきます。
HPから転載し少しアレンジします。
尚、正解は載せません、なぜなら・・・・からです。

これにより私(思考)の力が、いかに弱まっているかがわかるからです。
一方まだ強力なものを持っているかです。
強力なものを持っている以上、苦悩が絶えないと言うことです。

私(思考)の人生はアッという間です。
ですから、人生を与えられている今のうちに
永遠の真の自分”に気が付くことです。

私(思考)のカラクリのそれは、それは絶妙と言うしかありません。
しかし今、今の真剣なる“実践”で解ってきます。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

感覚や思考を完全に受け入れることは
      真の悟りと同じなのだ… 前回

   『賢者は目的を求めて努力しない
     愚者は目的を求めるために己を縛る


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
言葉を変えて言うと、
目的を持たないよう努力する。
目的は私(思考)を雁字搦めにするということです。

ですから自然と融和しとけばいいのです。
私(思考)を完全に弱体化しとけばいいのです。
言葉と遠く離れればわかってきます。

とにかく何もしないよう、常に“実践”ですね。
「何もしない」とはひとつ事に没頭するということです。

何かしらお気楽です…(笑)

2015-12-27 09:23:37 | 日記
前回の続きです。
「マザーテレサ」は天使ではなく人間です。
ですから良い面があり悪い面があるのです。

天使は人間が描いた空想のもので幻想と同じです。
天使は心優しくて人々を救うのです・・と言っても
幻想です、存在しません。(笑)

『そんな身も蓋も無いことを言うなよ』と聞こえそうですが、
これは事実ですので仕方ありません。
ですから「マザーテレサ」は私(思考)が創作しているのです。

「マザーテレサ」は亡くなりましたが本来はいないのです。
それに繰り返しですが、心配も不安も本来は無いのです。
すべて私(思考)が創作しているのです。
同じくすべて頭脳が創作しているのです。

思いが無かったら“”です。
考えが無かったら“”です。
私(思考)が無かったら、これが“真実”です。

正し、人間社会では頭脳が動かなくなったら何かと不便になります。
ですから必要なときは取り出すようにしとけばいいのです。

ご存知のとおり、私(思考)は年から年中、
勝手に出っぱなしだから苦悩等になってくるのですね。
これを制御し、統制していけば次第にお気楽になってくるのです。

そのための真剣なる“実践”です。

只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない… 前回

   『感覚や思考を完全に受け入れることは
      真の悟りと同じなのだ』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
あらゆるものを完全に受け入れることは
ひとつ”に収めるということです。

例えば「水」ですが、あらゆる川の水は海へと流れていきます。
富士山の頂上に流れ着いたと聞いた事はありません。(笑)

海へと流れ着いた水は無くなるわけではなく、
海と融合するのですね。
そして水蒸気となって天にのぼり、また雨等になって地上に降りてくるのです。
そして水となり川となり海に還るのです。

これを無常なる永遠に繰り返しているのです。
常に“実践”しとけば
これが“真の自分の中の様子”と観てとれます。

今日は山で弁当です

2015-12-26 09:51:49 | 日記
繰り返しですが、善悪等の相対はいとも簡単にひっくり返えります。

例えば優しい人だと思っていたのに、そんな冷たい人だとは思わなかったと
いうことが少なからずありますね。。
このように、なぜひっくり返えるのでしょうか?

100円玉を例にとりますと表と裏があります。
表だけだと偽ものです、当たり前のことですね。(笑)

「表裏一体」と言われるように、私(思考)はいい面も悪い面もあるのです。
私(思考)は「いいことだけ言う奴だな」とよく言われます。
それは反面に「悪い奴なのに」があるのです。

ですから私(思考)は、半分は「良い人」で
残りの半分は「悪い人」なのです。(笑)
ですから信用しないでくださいと言っているのです。

100円玉も表裏は均等に描いてあります。
裏が少ししか描いてないものは偽ものです。(笑)

あの人は「マザーテレサ」みたいな天使ともいえる方です、
とするとそれは化け物です。(笑)
「マザーテレサ」は天使ではなく人間です。
ですから良い面があり悪い面があるのです。


申し訳ありません、これから山に行くので途中で終わります。


只の道…淡々と歩く2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

有念も無念も徒に精神を疲れさすばかり
そのどちらも好んでも避けてもならない… 前回

  『一なるものを求めるなら
    感覚や思考さえ嫌ってはならない


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
穏やかで、ゆったりとした絶対安心を望むのなら、
好き嫌いがあってはならないのですね。
物事すべてです。

もちろん感覚や思考とて例外ではありません。
例えば“ひとつ”は“無”であり“空”であるからです。
更に“純粋そのもの”と言えます。

その“ひとつ”に感覚や思考を僅かでも入れたら
「相対」になります。
“純粋そのもの”に僅かでも汚れを入れたら
純粋ではなくなりますね。

そのためには弛まぬ“実践”が必要です。