只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

庭のイチゴが少しずつ大きくなってきました

2016-04-30 10:58:38 | 日記
去年は少ししか取れませんでしたが
今年はかなり芽を付けていますね。



何事も“いい加減”にやっています。
「そんな事ではだらしが無い!」と言われそうな気が
しますので、ちょっと言葉を添えて
“ちょーど、いい加減”ということです。

お風呂に入るときも『お湯がちょーど、いい加減』と
いうことです。

緊急な時と場合を除いて
仕事もいい加減
遊びもいい加減
食べるのもいい加減

寝る時間もいい加減
勉強もいい加減
収入もいい加減

限がありませんのでこの辺で止めますが、
“いい加減”は基準が無いということです。

無理が無い、苦悩が無い、私(思考)が無いということですね。
そのように“感じる”ということです。

“ちょーど、いい加減”で
今、今、今を淡々と歩いていきましょう。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・本当に一歩だけになる。これが心の万事を解決してくれるのです。…前回まで

   『心身の「隔たり」は自己《心》を持ち出して計り事をする癖ですから、
       それが入る隙間を与えぬの修行です。
  一心不乱でなければ出来ない相談です。本の身心一如に還ればよいのですから、
        坐禅はそのための最善の道なのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考する癖」は心を引き出し迷わせるものです。

このスピードは目にも止まらぬ速さです。
約0,001秒とも言えます。

それを見極めるのは、白刃の上を歩くが如くの
真剣さが必要となります。

「そんなの出来ないよ~」が出てこない前に
“只、やる!”のみです。

その“実践”が「約0,001秒」を見極めるようになってきます。
“見極める”とは「思考する癖」を落とすことですから
その境地はお気楽そのものです。

ですから淡々と“実践”するしかありません。


懐かしい昔のパチンコ台です

2016-04-29 08:43:27 | 日記
このパチンコ台は展示物ですが、
55年前頃、流行っていだものではないかと思います。
球を指で1個ずつ台に入れレバーで弾いていたものです、



人生、面白く可笑しく楽しく流れることがいいですね。
以前は苦しいことばかりだった、現在も楽にならないと
話をこぼす方がいます。

しかし“この今”には、以前も現在もありません。
もし在るなら持ってきて見せてくださいね。(笑)
繰り返し言っていますが、以前や現在は「記憶で幻想」です。
思考の創作ですね。

これを事実にすると苦悩が生まれてくるのです。
事実に無いものを「在る」と、疑いもせず日常化しているからです。
“無いものは無いですよ!”と言っても、
思考は「どこかに在るはずだ?」と探し始めるのです。

探して見つからないでも、根性がある、諦めない、
頑張る、ここで止めたら笑われる等などが
更に応援するのです。

終いには脳障害を起こしたりして
身体まで影響がでてきます。
簡単なことで「思考自我」が無ければ
約0,1秒で“無いものは無い”で終了です。

そして“後を振り返らない”ことです。
とにかくいろんなことをゴッチャ混ぜにしないことです。

例えば、1日の売上げを計算しなければならないときは
しっかり思考を使って明確にしなければなりません。
目的地に行く道を知らなければ、地図等を使って
仮の道を思考しなければ行くことはできません。

1ヶ月の売上げや経費、1年の売上げや経費は
だいたいこれだけと、5秒で終了したら
会社経営はやっていけませんね。

ですから思考は道具として必要なときは使い、
必要ないときは片付けて置く、完全に忘れておくことです。

そうするとお気楽に過ごせますね。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・考えようによっては、こんなに簡単なことはないのです。…前回まで

   『初めから「今」しかないのですから、即今底のままに「只」、
     真剣にしておれば「隔たり」が落ちると言うことです。
     呼吸ばかりになる、坐禅に徹する、本当に一歩だけになる。
       これが心の万事を解決してくれるのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
何の観の言ったって“今”しかないのですね。
昨日が在るわけでも、明日が在るわけでも永遠にありません。

ですからそのように“感じるまま”今、今、今と
流れるだけです。

“実践”は“今”に徹する行です。
“呼吸”に徹する行です。
“坐禅”に徹する行です。
“一歩”に徹する行です。
“耳、鼓膜”に徹する行です。

つまり思考を入れない、念を相手にしない、
念を無視する“実践”ということです。

今、今、今と真剣に“実践”すれば目覚めてきます。


本日は千両の小木です

2016-04-28 08:57:14 | 日記
昨日は万両でしたが
この千両は冬には下方に赤い実をたくさんつけます。



馬鹿という言葉があるのですが、
バカと言われて“何も心が動じない人”もいます。
「それはアホだからですよ!」と更に突っ込みを入れ
貶す方もいます。

果たしてそうでしょうか?
本来には『馬鹿』がありません。
ご存知のとおり『馬鹿』や『アホ』は思考が
創作したもので事実にはありません。
ですから賢くもありませんね。

この思考である幻想世界は迷いの世界でもあるのですね。
文字ひとつでもあらゆる意味が生まれてきます。

例えば『へ』ですが「ハエ」とも捉えますね。
「灰」とも捉えます。
更に「オナラ」とも捉えます。

このように何でもいいのですが事実は
『へ』は『へ』で何の意味もありません。

ですから一旦、事実に目覚めてみると
幻想も真実もわかります。
それがお気楽ということですね。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・「隔たり」の癖が無くならないので自覚症状が起こらないのです。…前回まで

   『即ち心の正体を知るには、「今」に成り切り、その物自体になって
        初めて得られると言うことです。
    考えようによっては、こんなに簡単なことはないのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
『心の正体』は思考ですね。
“今この瞬間、無思考”が“真実”です。

この身体を自分とするから苦悩等になるのです。
自分と思わなければお気楽です。

「痛みは痛み」で、その思考は関係ありません。
「悲しみは悲しみ」で、その心は関係ありません。

痛みが自分としたら思考もあれやこれやになり痛がります。
悲しみが自分としたら心も悲しんで落ち込んできます。
他人を恨む自分であれば心も荒んでいきます。

ですから一旦、自分と離れ切ったとき
現在まで幻想していたことに気が付きます。

それがそれ”になるまで常に“実践”です。


小雨に濡れている万両の小木です

2016-04-27 09:03:17 | 日記
山から移植した『万両』です。
万両は冬に赤い実を上部にたくさん付けます。
なんとなくお金持ちになった気がします。笑



前回の「思い込み」という鉄壁
善悪の想念を検証してみます。

正しさに固執した自分のルール
それを破ると自分や他人を裁く
思考の根源である

例えば裁判長の役みたいなもので、いろいろな事に白黒をつけるのです。
綺麗は花を折ってはならない
他人のものを取ってはならない
仕事中にさぼってはならない
他人には親切にしなければいけない
唾を吐いてはならない
人がいるところでオナラをしてはいけない(笑)
まだまだありますが限がないのでこの辺で止めときますね。

では「ならない!」なら綺麗な雑草花は
切り取っていいのか?が片方には控えているのです。
つまり『悪い』があれば必ず『良い』が付いてくるのです。逆もしかりです。

これが宇宙の法則ですね。
このことがわからないから苦悩するのです。

私(思考)たちは悪いことをしたらダメと教わってきました。
しかし、今でも善いことを悪いことにすり替えて
教え込ませている卑劣なところが日本全国にあります。

これは残念ながらこの“宇宙の法則”というものを
私(思考)がわからないからです。

そして「宇宙の法則??何をバカなことを言っているんだ!」と
反発で終わりです。
ですから永遠に心配、不安、苦しみ、悩み、恐れで過ごさなければなりません。

本当に思い込んだら「苦の世界」とお釈迦様の言われた言葉ですね。
「苦の世界」は自分が創作し思い込んでいるだけです。

ですから“事実には苦悩は無い”とお釈迦様が言われています。
そして約2600年間もその教えが引き継がれているのです。

「思い込み」を事実と認識しているところから、
脱出するのが“実践”です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・本当の自分を知るとはこの自覚を得ることです。…前回まで

    『この大自覚はその物に成りきって身心一如に成らない限り、
     「隔たり」の癖が無くならないので自覚症状が起こらないのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
「思考する癖」は自分を忘れ切れば落ちるのです。

例えば喉が渇いたから『水』を飲むとします。
このとき「喉が渇いた」や『水を飲む』が無いのです。
『水』も無く只、そのものに成るということですね。

“只、感じる”だけ、それが“大自覚”です。
「何を馬鹿を言う!頭おかしいのでは?」と言われるのがほとんどです。笑

それをはっきりと観ることができれば
かなり“実践”してきた証拠ですね。

安納芋の苗が出てきました

2016-04-26 08:17:09 | 日記
安納芋をお客さんから貰ったのを種芋として
栽培しています。
かなりの苗が取れるので山の畑作りに励んでいます。



前回の「思い込み」という鉄壁
脅迫の想念を検証してみます。

自分でわかっていても頭の中から離れられない
正そうとしても強大な脅しがくる

落ち着かなくちゃとしても波が押し寄せてくる
このように頭の中がどうにもならないことが脅迫観念です。

幻想から脅迫されているのです。
そして幻想に脅えているのですね。
幻想を幻想とせず事実としているからこのようなことが起こるのです。

無いことを在るとしているから
幻想から抜け出す事ができません。
“無いものは無い!”のです。

以前、新燃岳が噴火したことがありましたが、
その頃にある人の話で激しい噴火だから、
宮崎全土が吹っ飛ぶのではなかろうか?と言われたことがあります。(笑)

ですから幻想とは恐ろしいものですね。
「本当にあるかも知れない」と脅迫するのが幻想だからです。

繰り返し述べますが“今が事実”です。
今を除いて事実はどこにもありません。

ですから“今この瞬間・無思考”が“真実”です。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    ・・ところがこの不可思議・不可商量なる霊体は
              この身体以外には無いのです。…前回まで

   
    『従って心身を、本の身心一如に還せば、即このままが本当であり
        本来であることがはっきりするのです。
            本当の自分を知るとはこの自覚を得ることです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
心が外に飛び歩く癖を無くせば本来になり、
心と身体は“ひとつ”だったということがはっきりするのです。

このように自覚すれば“真の自分”とは
“身心一如でひとつ”ということです。

私たちの人間社会はいつも身心一如と
いうわけにはいきませんけど、
只、根本が“ひとつ”ということを忘れてはならないということです。

何も難しく考えないで
身と心が一体の道を只、淡々と歩いていきましょう。