ご承知のとおり“今”には1秒前も1秒先もありません。
ですから心配、迷い、不安、苦悩、恐れはどこにも
“無い”のです。
繰り返し述べていますが、“今この瞬間・無思考”が
真実だからです。
これに「過去はあったのだ!」とか「未来は来るのだ!」を
持ってくるのは幻想ですので、それを打ち消すのが
“只なる実践”の持続ということです。
反論する私(自我)を相手にしない、無視する、
知らん顔する、触れない、放っておくのです。
しかし、相手にした途端、「思考自我」の土壷に嵌まって
いくのですね。
ですから一時の油断も出来ませんので、常に注意深く
見張っておかねばなりません。
私(思考)は1秒の油断も隙も無く、四方八方からわからないように
忍んでくるやから者ということです。(笑)
とにかく、忍んで来たのを気が付けば消えていきますので、
これがうまく出来る出来ないを超えて見張り続けていれば、
私(自我)は出て来れなくなるのですね。
それと同時に“今に目覚める”のです。
“今”に目覚めるとは、繰り返し述べている通り
そこは思考無しの、穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。
これは“今この瞬間・無思考”という真実です。
ですから心配、迷い、不安、苦悩、恐れはどこにも
“無い”のです。
繰り返し述べていますが、“今この瞬間・無思考”が
真実だからです。
これに「過去はあったのだ!」とか「未来は来るのだ!」を
持ってくるのは幻想ですので、それを打ち消すのが
“只なる実践”の持続ということです。
反論する私(自我)を相手にしない、無視する、
知らん顔する、触れない、放っておくのです。
しかし、相手にした途端、「思考自我」の土壷に嵌まって
いくのですね。
ですから一時の油断も出来ませんので、常に注意深く
見張っておかねばなりません。
私(思考)は1秒の油断も隙も無く、四方八方からわからないように
忍んでくるやから者ということです。(笑)
とにかく、忍んで来たのを気が付けば消えていきますので、
これがうまく出来る出来ないを超えて見張り続けていれば、
私(自我)は出て来れなくなるのですね。
それと同時に“今に目覚める”のです。
“今”に目覚めるとは、繰り返し述べている通り
そこは思考無しの、穏やかな安らぎのある“絶対安心”の境地です。
これは“今この瞬間・無思考”という真実です。