繰り返し述べていますが、“後を振り返らない”ことが
“実践道”です。
それは、後を振り返っても“何も無い”からですね。
昨日の事、幼少の頃を振り返っても事実には無く、それは
「記憶という幻想」だからです。
さてここから問題です、事実には無い「記憶という幻想」を
探せば探すほど苦悩に陥ってくるのです。
“無いものは無い”のが事実ですので、“無い”ものを
「在る」とする私(自我)は、どうすることもできないから
ゆくゆくは苦悩になるということです。
これは「執着」という思い込みが、私(自我)に強烈にある
からですね。
ですから、この後を振り返る癖を捨て去るのが
“只なる実践”の持続です。
今、今、今の“実践”で、事実には無い「記憶という幻想」が消え去ったとき、
“真実に目覚める”ことが出来ます。
勿論、「記憶」という生きて行く上で必要な道具が、
無くなるということではありません。
あくまでも、穏やかな安らぎのある人生を覆い隠す
「幻想」が消え去るということですね。
ですからこの世は“只!”ということで、諸々の
思いという幻想は捨て去ることです。
しかし過去は、生前からの想念ですので簡単に落とすことは
できません。
それで、弛まぬ“只なる実践”の持続という“実践道”を
歩むのです。
“実践道”です。
それは、後を振り返っても“何も無い”からですね。
昨日の事、幼少の頃を振り返っても事実には無く、それは
「記憶という幻想」だからです。
さてここから問題です、事実には無い「記憶という幻想」を
探せば探すほど苦悩に陥ってくるのです。
“無いものは無い”のが事実ですので、“無い”ものを
「在る」とする私(自我)は、どうすることもできないから
ゆくゆくは苦悩になるということです。
これは「執着」という思い込みが、私(自我)に強烈にある
からですね。
ですから、この後を振り返る癖を捨て去るのが
“只なる実践”の持続です。
今、今、今の“実践”で、事実には無い「記憶という幻想」が消え去ったとき、
“真実に目覚める”ことが出来ます。
勿論、「記憶」という生きて行く上で必要な道具が、
無くなるということではありません。
あくまでも、穏やかな安らぎのある人生を覆い隠す
「幻想」が消え去るということですね。
ですからこの世は“只!”ということで、諸々の
思いという幻想は捨て去ることです。
しかし過去は、生前からの想念ですので簡単に落とすことは
できません。
それで、弛まぬ“只なる実践”の持続という“実践道”を
歩むのです。