今回は公案です。
ある日、禅師が弟子の百丈とともに、外出した。
野鴨が飛んで行くのを見て、
禅師が言った。…「あれはなんだ?」
百丈が答えた。…「野鴨です」
禅師が再び言った。…「どこへ行ったのか」
百丈が答えた。…「どこかへ飛んで行きました」
すると、禅師が、百丈の鼻をつまんでひねった。
百丈は、痛くて、「イタタタタ!」と声を出した。
そのとき、禅師は言った。
「少しも飛び去っていないではないか」
と、いう公案です。
公案は真実を見極める実践です。
ですから私(思考)の世界、幻想世界ではわりません。
真実世界から観れば何と言おうと“それがそれ”です。
正解も無ければ間違いも無いということです。
「野鴨」を、例えば『白鳥』と言ってもいいのです。
「野鴨」は真実世界には無く、『豚』も無くすべてはひとつです。
ですから何と言おうといいのです。
しかし、「どこへ行ったのか」と言われれば、真実世界には
方向はありませんから“今ここ”だけです。
すべて中心ということです。
目を閉じると暗闇になりますが、暗闇のどこが中心かというと
意識が向いたところです。
その意識を“真の自分”とも言えますね。.
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
・・・境というかくぎりというか外債というか、
これが明確になったときが悟り …前回
『そうすると現実は常に現実でしかなくて、しかもその現実は
常に流転をしてなくなっておるってことがはっきりわかる。』
いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
幻想から脱出すると現実です。常に現実で今です。
一時も止まることのない現実で今です。
雲のように姿形を変えて行きます。
例えば、今にも雨が降りだしそうな雲の現実で今です。
秋空の夕陽にあたる雲も現実で今です。
このように流転している今で、
今は止まることの無い“永遠の今”です。
ある日、禅師が弟子の百丈とともに、外出した。
野鴨が飛んで行くのを見て、
禅師が言った。…「あれはなんだ?」
百丈が答えた。…「野鴨です」
禅師が再び言った。…「どこへ行ったのか」
百丈が答えた。…「どこかへ飛んで行きました」
すると、禅師が、百丈の鼻をつまんでひねった。
百丈は、痛くて、「イタタタタ!」と声を出した。
そのとき、禅師は言った。
「少しも飛び去っていないではないか」
と、いう公案です。
公案は真実を見極める実践です。
ですから私(思考)の世界、幻想世界ではわりません。
真実世界から観れば何と言おうと“それがそれ”です。
正解も無ければ間違いも無いということです。
「野鴨」を、例えば『白鳥』と言ってもいいのです。
「野鴨」は真実世界には無く、『豚』も無くすべてはひとつです。
ですから何と言おうといいのです。
しかし、「どこへ行ったのか」と言われれば、真実世界には
方向はありませんから“今ここ”だけです。
すべて中心ということです。
目を閉じると暗闇になりますが、暗闇のどこが中心かというと
意識が向いたところです。
その意識を“真の自分”とも言えますね。.
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
・・・境というかくぎりというか外債というか、
これが明確になったときが悟り …前回
『そうすると現実は常に現実でしかなくて、しかもその現実は
常に流転をしてなくなっておるってことがはっきりわかる。』
いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
幻想から脱出すると現実です。常に現実で今です。
一時も止まることのない現実で今です。
雲のように姿形を変えて行きます。
例えば、今にも雨が降りだしそうな雲の現実で今です。
秋空の夕陽にあたる雲も現実で今です。
このように流転している今で、
今は止まることの無い“永遠の今”です。