只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

山の畑作りで木のカブ根っこ堀は大変です(笑)

2016-01-05 08:32:54 | 日記
禅問答とは、ネットで意味を調べると
何をいっているのかわからない難解な問答。
話のかみ合わない珍妙な問答とあります。

私(思考)から観るとその様になります。
私(思考)がいない視点から観ると逆になりますね。

禅問答で例えば「自転車に乗るには」と言われたら、
いろんな乗り方がありますから
それぞれの人の方法を言われると思います。

禅問答はそうではありません。
私(思考)がいない視点から観るのです。
いつもそう言う観方をしていませんから、
つい幻想である私(思考)から観たことを言うのです。

真実から観ると「自転車に乗る」とは
只、自転車に乗ればいいのです。
素直にそのままということです。
一切合切の理屈はありません。
また、そこに正解とか間違いはありませんね。

「押す」とは只押せばいいのです。
『何を?』が無いのです。
思考が無いのです。
「押す」と閃いたものを押せばいいのです。

スタンプを押しても良し、
他人の背中を押してもいいのです。(笑)

何の意味が無いということをわかればいいのです。
ですから人生は意味なく自然な流れといえます。
では今日も安楽な気持ちでお過ごしくださいね


只の道…淡々と歩く
2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる… 前回

    『すべての二元対立は 自己中心の分別から生じる
      それらは夢まぼろし、空中の花
        つかもうとするだけ愚かなこと


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
すべての相対は私(思考)が創作するのです。
私(思考)の自己中心から発生するのです。

善いことと思い込むと事実ではないのです。
それは夢まぼろし、空中の花で
幻想と言う事になります。

ですから、それを善いこととするのは愚かなことなのです。
幻想には実体がありません。
そのことにしっかりと見極める事が大事です。

本年、少しでも感覚的にそれを掴むことができるよう
油断無く常に“実践”ですね。