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芭蕉と吉野山

2014-02-02 14:37:01 | 日記
松尾芭蕉は、もと伊賀上野の藤堂家に仕えた侍でしたが、主君が若くして病没したので、故郷を捨て、京都へ出て学問にいそしみ 三十七歳の冬、江戸深川に居を定めました。
彼は旅を住家とし、旅に死んだ人ですが、四十一歳の貞享元年(一六八四)九月吉野山を訪ね、このときの旅を「野晒紀行(のざらしきこう)」と名づけ、「独り吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、烟雨(えんう)谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家処々に小さく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心にこたふ。
ある坊に一夜を借りて
碪打って我に聞かせよや坊が妻
西上人(西行法師)の草の庵の跡は、奥の院より右の方二丁ばかり分け入る程に・・・
とくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。
露とくとく試みに浮世すすがばや
山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜めになれば、名ある処々見残して、先づ後醍醐帝の御廟を拝む。
御廟年経て忍は何を忍ぶ草」
芭蕉はそれから四年後の、元禄元年(一六八八)、再び吉野山を訪ね、この旅のことを「笈(おい)の小文」という紀行にしるし、
吉野にて桜見せうぞ檜の木笠
春雨の木下につたふ清水哉
吉野の花に三日とどまりて、曙(あけぼの)、黄昏(たそがれ)のけしきに向ひ、有明(ありあけ)の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公の眺めに奪われ西行の枝折に迷ひ、かの貞室がこれはこれはと打ちなぐりたるに我いはん言葉もなくて、いたずらに口を閉ぢたる。いと口惜し」
とむすんで、吉野の花は一句も詠んでいません。
咲き誇る花にただただ酔い、その美しさに心を奪われて、さすがの芭蕉も口を閉じたものと見えます。
吉野町



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