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有間皇子墓

2013-12-21 20:31:30 | 日記

前回探しても分らず、行けなかった有間皇子墓。
今回は何とか見つけてお参りする事が出来ました。

有間皇子は、飛鳥時代の皇族。
孝徳天皇の皇子、母は小足媛。
有馬皇子と表記されることもある。

舒明天皇12年(640年)、軽皇子の皇子として誕生。
母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。
天智天皇の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹は母方の従妹になる。
孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)に父が即位し孝徳天皇となる。
孝徳天皇は同年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は白雉4年(653年)に都を倭京に戻すことを求めた。
孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。
失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。
このため、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇の姉の宝皇女が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。
飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。
飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。
皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている。
ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。
斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。
私は何も知らぬ」と答えたといわれる。
翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。
なお、処刑に先んじて、磐代の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。

皇子が処刑された藤白坂にお墓がありますが、神妙な気分です。


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