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大田皇女陵2

2012-08-12 16:11:16 | 日記

斉明天皇は孫の大田皇女を自分の陵の直ぐ近くに葬る。
若くして亡くなり、持統天皇の影になって幸薄かった大田皇女を気の毒に思ったのでしょうか?

やはりこの陵、少し小さい。
拝所も小さく、正面から参拝出来ないので扱いは若干良くない。
まあこの立地条件だと仕方がないのかも。


大田皇女陵

2012-08-12 16:08:44 | 日記

斉明天皇陵のすぐ下、大田皇女の陵があります。
大田皇女は斉明天皇の長男、中大兄皇子、天智天皇の皇女、斉明天皇の孫である。
大田皇女はあの大津皇子の母親で、持統天皇の姉である。
本来なら大田皇女が天武天皇の正妃であり、大津皇子が皇太子であってもおかしくなかったのだが、如何せん大田皇女は身体が弱く、おとなしい人でした。
そして若くして亡くなってしまいます。
持統天皇は自分の皇子、草壁皇子を皇太子にしたかった。
大津皇子は徐々に阻害されていく我が身をのろい、日々愚痴をこぼし、自棄酒を飲み、反持統天皇の人間達が自然と回りに集う様になる。
その連中と毎夜宴会を催し、結果謀反の疑いをかけられる様になってしまう。
これが悲劇の皇子の由縁である。


皇極・斉明天皇陵2

2012-08-12 16:05:39 | 日記
越智崗上陵、結構山の上にあります。
今、明日香の牽牛子塚古墳が斉明天皇陵ではないか、と話題になっている。
お互い条件は合っているので良く分かります。
ただ、牽牛子塚古墳には石棺を置くスペースは2しかなく、それでは斉明天皇と間人皇女だけという事になる。
これでは健王の石棺が置けない。
と言っても健王は8歳だからそんなにスペースは必要なかったかも知れないし、もしかしたら火葬にして、石棺は必要なかったのかも知れない。
もしくは、そもそも健王は合奏されてなかったのかも知れない、と全てもし、かも、である。
宮内庁が言う、この斉明天皇陵の中がどうなってるのかが分らない限り、何も解決しないのですよね。


皇極・斉明天皇陵

2012-08-12 16:03:13 | 日記

光雲寺の裏山からかき分けかき分けやっと辿り着く。
斉明天皇陵の裏。
ここへは前から訪れてみたかった。
いつも直ぐそばは通るのだが、中々チャンスがなかったのだ。

斉明天皇陵には、斉明天皇と娘の間人皇女を合葬し、中大兄皇子の娘、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った。
ところが、同じ日もう一人合葬された皇子がいる。
中大兄皇子と遠智娘の間に生まれた建王である。
斉明天皇から見れば孫にあたる皇子。
建王は、生まれつき口がきけないという障害を持っていた為、建王への愛情はひとしお深かった。
しかし皇子は8歳という若さで黄泉の国へ旅立ってしまう。
女帝は慟哭し別れを惜しみ、群臣たちに対して、「吾が死んだら、死後は二人を必ず合葬するように」と遺言している。

光雲寺4

2012-08-12 16:00:56 | 日記

越智氏の墓域です。
越智氏には色々な説があり、物部氏の分家という説もある。
この墓域の裏山から斉明天皇陵へ続く道がある。
立て札をそのまま信用して山に入るが、ひたすら山道、しかも手入れをしていない引き分け道。
蜘蛛の巣と蚊、蝿、小さな虫達に絡まれながら、結構な距離を歩く。
途中道しるべも殆どなく、諦めかけた頃に斉明天皇陵の裏に辿り着いた。