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④大阪フェスティバルホール (8月1日)

2017年08月03日 | ライブ・公演・舞台

ショックなことに時間をかけて書いていた記事が消えてる!ガッカリ・・ 気を取り直してもう一度(T_T) 正確ではないです。


 アンコール

わろた?へっへっへっ・・ わらわしたった(^-^)へっへっへっ 

ワイルドワンズの皆さんにはちゃんとお断りして、殆ど出てきません、私ばっかり。冒頭のあれは親戚の子ばっかり、研タ、研ボウ、研子・・女の子もいたよ、プッとなってからは私。プっとなったんは売れなくなってからじゃないんですよね。CDが売れなくなって、TVに出て行ってもなんか嬉しくないな・・と思い出した頃、お笑の人ばっかりになって、色んなことをやらされるし、色んなことをやらされるのって そんなに好きじゃないんですよ。それで志村けんさんには、色んなことを引き出してもらったりしてね、ライブで地方へ行くと、ケン!なんて言われたりしてね。まあ、ええかと思たりしてね。

あのぉ タイガースで売れて売れて、それで終わるもんだと思てたらソロでも売れて天狗になって、これでもう終わりだろうと言われて また売れて。TVで歌番組が多かった頃ですから、僕が皆さんが記憶に残っているのはザ・ベストテンの頃ですが、僕のピークが過ぎてからですからね、あれは。だって企画書が「憎みきれないろくでなし」が一等賞になるという企画書だったわけです。それを見せてもうた事があるんですけど、僕が歌謡大賞を貰って男っぽい男やと言われて、なんでそんな言われ方せなあかんの。男やのにおかしいやないか、男っぽい言うのは女の人に使う言葉なんやで、あの人は女性ですけど男っぽい女の人ですよということで、しかも意外とと言われると、は?いつも思てたんですけど、そんなこんなで、いつも応援してくれる人が出てきたりして、大賞取ったら終わりやからいうので、その次にと言うので色々やりはじめた。

80年代の冒頭に、それこそTOKIOでパラシュートを引っ提げてTVに登場して、ライブに来てくれた人が落下傘が出てこない、あれはTV向けの事で、けっこうそれが長持ちはしたんですけど、80年代いっぱいのことでしょう。TVを賑わしたのはそれくらい。その後TVじゃないなと思ったりして、ミュージックフェアという番組では一人でやらせてくれはったりと言う時期もありましたが、それも長く続くわけやなし、自分は何が好きなんや。自問してみたら、ライブが好き。ライブを真面目にやっていこう、全国を廻ろうと思ったわけ、方法として少しづつ少しづつ、自分の顔を出さないようにしたわけ。ポスターを作らない、チラシも作らない。宣伝は沢田研二という文字だけ。これがね、良かったんよ(笑) このプは一日にして成らず、下地があってですよ。僕は少年時代から痩せの大食いだったんですよ、それで よう早死にしなかったと思いますよ。

そんなこんなでライブを続けてきたら、ちょうどなんやかやで あと10年したら還暦や、そう思って煙草をやめて、酒と煙草どちらをやめるなら、煙草!最初の頃はそうでもなく(体型が)一進一退というんですよ、僕は50代の時に10年たったら還暦や、誰が見てもジーさんや、太ろうが痩せようが文句言うやつがおかしい、そうやで! 食べたくない人は太らない人が多い、例えば田村正和さん、その代り声が出んようなってきてるがな。(田村さんの声マネ、ちょっと似ていました)年末しか出て来てはらへんやん、去年の年末見た?心配やわ、

そしたら還暦になった時に還暦やから、東京ドームでやりたい!そしたらソーゴーってとこですよ、ソーゴー、ソーゴー東京ソーゴーと大阪ソーゴーがあるんですよ、そこに「うちでは扱いかねます」「沢田研二、お客さん入らへん言うたんやで。」どう思うねん!シバキに行くぞ。ここだけの話しや、ここだけの。言われたら意地になりますがな、ソーゴーは元は民音か労音をやってはった人がソーゴーを立ち上げた、毎年 正月のフェスは僕がやってたんです。そう言うことがあって、先代の会長さんの時は ようしてはって下さった。亡くなった後からや、大事にしてくれた人が亡くなると、そりゃ冷たいもんやで・・

ソーゴーにはいっぱい いっぱい、やってきた筈や。ご祝儀やいうてね、最後っ屁でええやん、大変失礼しました、最後の花火でええやん、やってくれたらええやん。それが逃げよったわけやん。意地になりますがな、捨てる神あれば、拾う神ありや、ディスクガレージがやってくれはったワケですわ、大阪はページワンがやってくれはったワケです。やるならやったで、お客さんにいつもどうり来てもうて喜んでもらえるはずないと思うたわけや。まして一杯になるはず有りませんと言われているわけやで、この沢田研二が・・(笑)(拍手) 

言われてみ、考えるがな、中学卒業のこの頭で。丸坊主の頭でと言う訳じゃないんよ。一生懸命考えたがな、80曲歌てやって、ほんまにやったったがな。 80曲なんか歌うてみ、喉カラカラ血反吐はいて死によんで。大阪は東京があるから声をセーブしたね、でもセーブしたら力が抜けてて良かったんや。セーブしたのに声が出たんやから!東京なんか、ずっと大変やったから。60いうたら歳やからね、あの日の事を忘れません言うたら、とっくに忘れてる(笑) 大阪やったあと、2~3日で東京やった、いつもなら24、25曲、それをフルサイズやで、どっこもメドレー無し、フルで80や。もうヘロヘロや、それでも見た人は良かった言うてくれた、ほんのちょっとですけど、また人気が出てもうた。沢田研二、居ったな。

今回の50周年はどこにも言うてないんです、普通やったらTVに出て行きはるやん。50周年30周年10周年の人達が集まって、50周年にショーケンが出てたらしいな。ギター持ってる写真が出てたわ。普通ならTVに出てやります、僕は絶対にやらない。初日のNHKホールの時に、50周年をやります。スポーツ紙の人たちに声をかけた、見に来てくださいというたわけやないが、観にきて書いてくれはった、デイリースポーツや阪神の、デイリーの記事が一番大きい。

僕なんかライブを真剣にやろうと、ミニの世界、口コミの世界。僕は大阪の戎橋のナンバ一番というところで、僕が一番最初にやったのは神戸の映画館というのもあるんですけど(ジュリー間違ってます、姫路の映画館です)そういう所から、ジャズ喫茶で始めた人間というのもあるんですけど、ましてや こういう事をやるという、コンサートを観に来てくれたお客さん、いっそう独自のこれまで、応援してくれない人たちを味方につけ、味方の人ももちろん味方になってくれるはずなんですけど、そうでない人の力まで僕は自分の力にしようとする。

これからどこまでやれるかわかりませんが、歌の世界は倒れるまでやるぞ、という事で今年は50周年、来年は70という事で、売れてない事は長かったけど、休みも取れて仕事もあって、自分で仕事が回転していけるという事で、ライブに関してはこうなってしまって初めてできるという事なんですよね、一からできるというわけではないんですよね。マチュアの時によく、パーティーをやると、パー券を売るんですよね。前売り券、そのお金を当てにして会場を借りて、売れなかったら会場費は持ち出しになる。今年は1000円値上げさしてもらって8000円、今日まで殆どが満席になる。欲をかいたら満員のお客さんの前で歌い続けたい。拍手

それにつけましても来年は70という老齢になり、最近はお酒も呑まない、うちにいる時も殆ど飲まないという生活をしております。ただ飲むときは腰を据えて飲む。健康管理は自分でやらないと どうしようもないこと、自分でできることは面倒みますが、どうか皆さん健康でいらして下さい。どう考えても 今日来ている皆さんと同じような年代の人達でないと、僕の良さなんか分かるわけはないんです。あの爺さんのファンなんや、そんな事いうたら苛められるよ。(笑) 頼みますよ、皆さんだけが頼りです。末永く、ともに朽ちてゆきましょう。本日の短いご挨拶とさせていただきます。有難うございます。有難うございます。

メンバー紹介。

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