「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

サボ(怠業)

2006-08-31 19:04:03 | Weblog
 この頃から、病欠と言う現象が増加して行った。軍医の診断書があれば、作業が休めたので、医務室に行く者が多くなった。長野県出身の上等兵などは
 「胆石で腹が痛いと言えば診断は、つかないよ」なんて言っていたが軍医は
 「お前達のお陰で私は藪医になってしもうた」と言って笑った。
 この病気だとここがいたい筈だと思うが、そこではないと言う。どうもチンプンカンプンになってしまったと、こぼしたが軍医殿は産婦人科医で、兵隊は仮病でズル休みしたいのだから仕様がなかった。
 病気から入院、それから内地帰還という筋道が少し分かってきたので、この研究が衛生兵からの情報として流され、血沈を下げるには生の醤油を飲めば良いとか、レントゲンを撮られる時には胸にアルミの粉を塗りつけると良いとか、様々の話があった。又、実際にやってみた者もいた。
 そうこうするうちに出場作業員がドンドン減ったので、各中隊に人員割り当てがくる事になった。英軍からの命令だと言うのだったが真偽は分からない。それで多少病気でも比較的軽症と見える者が出されるが、それも年数の若い者から行かねばならなくなった。
 それで、作業に行っても適当にやれ、身体を壊してまでやる必要はないと考えるようになり、又、私達がこうして英軍の作業に従事しているのは日本の賠償の一端を担っているのだとも言われたが、日本の賠償を何で我々一部の者がしなければならないのだと言う意見も出てきた。
 それに帰還の目途が全然示されない事と相まって、作業隊内部の空気は暗く、重苦しいものになっていった。
 ある日、作業隊本部のあるキャンプが兵隊達によって襲撃され、テントは投石されて滅茶苦茶に壊された。話によると隊長は怪我をしたという事だった。
 隊長は陸軍の大窪少佐から海軍の伊藤少佐に代わった。
 又、英軍の収容所長が代わったという噂が流れて、2,3日したら食事が急に良くなり始めた。前の所長は作業隊員の糧秣を横流しして、2号を囲っていたと言う噂が飛んだ。

食糧不足 2

2006-08-30 10:14:41 | Weblog
私達は昼食に持って行ったビスケット2枚か3枚食って水筒の紅茶(出しがらでただ色がついているだけ)をガブガブ飲むと、なるべく日の射さぬ所に12時55分頃まで、アンペラや紙切れを被って寝た。よくしたもので5分前位には不思議と目が覚めた。
 橋の下に寝れば鼠の死んだのやゴミが枕元を流れて行く。どぶの臭いも慣れたもので余り苦にしなかった。
 この頃から糧秣倉庫の作業に人気が出た。監視の目を盗んで缶詰をチョット失敬するのだ。作業に行った者がチームを組んで、見張り役、実行役、食べる役と受け持って、ハム、チーズ、バターを戴いたものだ。
 生米、メリケン粉(これは水で団子にして食う)、生ピーナツ(これは上等だった)など手当たり次第食える時には食った。ものの分かった将校は
 「俺が見張ってやるから、お前達見つからぬようにやれ」と言って、倉庫の入り口の所で、英兵となにやらしゃべり廻っている。その間、私達は死角でごっそり頂き、素知らぬ顔で出てくるということもやったが、空き缶は見つからない所に隠しておくことを忘れなかった。
 ある者は見つかって英兵からキャンプの周りを5,6回追い回されたが、丁度そこにいた仲間に紛れ込んだ。英兵が顔を指さして
 「ユー?」と言ったそうだが平然として「ノー」と言ったら、怪訝な顔をして立ち去ったこともあった。
 他の部隊で大尉の人がいた。引率して作業に出ていたが、ある時、インド人の食べるライスカレーを黒人の監督からおごられて、自分1人で食ったそうだ。それからこの人のことを「カライカライ大尉」と呼んだ。引率して通ると
 「カライカライ大尉が通るよ」とみんなで笑った。
 作業が終って帰る道、みんな軍靴をゾロリゾロリとアスファルトに引きずって歩いた。足が重くて上がらないのだ。道の側の支那人街は夕食のところもあった。彼達は食事は他の人が見るところでとる習慣があるので、道から見えるところに食卓を出して一家団欒で楽しそうに食事をしていた。それを見て
 「畜生」と誰かが言った。きっと故郷のことを思い出したのであろうか、また、空き腹がギュウーッと応えてきたのか、両方であろう。こんな時、何か話しかけようものなら「黙っとれ」と怒られた。腹が減って、ものを言うのも難儀だった。
 私達はただ黙々と足を引きずって遠い道を作業隊幕舎まで帰って行った。

食糧不足 1

2006-08-29 18:58:47 | Weblog
 そうこうするうちに食糧がだんだんと乏しくなってきた朝はお粥みたいなもの、飯盒につげば米粒が5,6粒入っていた。昼食はビスケット2枚か3枚、このビスケットを1週間分1度に配給するものだから、ひもじさの余り、つい先の分までも食ってしまい、4,5日は昼食抜きといった者も出た。夕食もおじやといっても形ばかりの1口ものだった。
 私の同年兵の千々岩覚君が便所当番についたことがあった。便所は西の端に形だけのものがずらりと横1列につながって建てられ、木板に穴があいており、その下に金属製のバケツ見たいな便器が1個1個置かれ、毎日それを運搬車にあけて、後を水で綺麗に洗って油雑巾で拭いて元の所に入れて置くのだが
 「食事が悪くなると代弁の溜りがかたがとても減ってくる。近頃はほんのチョットになった。便所当番は楽になったが…」と言った。私も大便はホンのしるしだけしか出なかった。
 ある時、集会があって
 「何か質問はないか」と聞かれて
 「何か腹の減らぬ方法はありませんか」と、隊員の質問。
 「腹の減らない方法は無いよ」と大谷軍医殿。
 「腹が減って眠れません」悲痛な声。
 「それなら水でも腹一杯飲んですぐ寝るより仕方がないなあ」と軍医殿も苦笑い。実際、宵の口に「腹減ったなあ」とつぶやく声があちこちの幕舎で聞こえた。しかし、この状態について英軍からの通告では
 現在支給しているカロリーは国際捕虜取扱規定を下回るものではなく、栄養失調になることはない」とあったそうだが、現実は栄養失調で次々と入院する者が現われた

幕舎の日常

2006-08-28 18:42:01 | Weblog
あっち、こっちの作業所に行って、帰ってくれば地べたの上に天幕を敷いて、自分の毛布を被って寝るという毎日が続いた。
 他の部隊の者から、「あんた達は働きすぎる。適当にやっていないと今に身体がもたなくなる」と注意されることもあったが、適当にやる方法が分からなかった。
 水も足りなく、マンデー場の設備もなく、何日もマンデーなしで過ごさねばならなかった。土曜日も日曜日もなく、作業の連続であったが、その当時のせめての救いは、食糧がまあまあの状態で、時には少しではあったが甘い物も上がっていた。これは私達、航空情報連隊が在庫の糧秣を全部持ち込んだからであった。
 しかし、地べたに直接寝ることは疲れがとれないし、湿気が多くて健康に非常に良くない、このままだとみんな病気になってしまうぞと、誰言うとなく分かってきた。そして作業の帰りに、板切れやアンペラ(カヤツリグサ科の多年草。茎は高さ0.5~2m直径約3mmで、長く横に伸びる地下茎から直立する。茎は打って平らにし、敷物・袋・帽子などを編む。アンペラ草。)類を雨外套の下とか雑嚢の中にいろいろ工夫して持ち込んで下に敷くことをやり始めた。
 しかし作業隊の取り締まり規則では、外部からの物品の持ち込みは厳禁とされ、作業隊の入り口の門で警備兵にチェックされ、時には没収されていた。
 「何とかならぬか」と私達は将校幹部に話をした。又将校本人もその苦痛に絶えず、本部に陳情したのであろうか、作業隊本部から
「至急床を作るようにせよ。しかし、その材料は相手主の許可を受けて貰った物でなければならない」との指示が出た。
 これで大っぴらで板切れ類の持込が出来ることになったので、みんな張り切って拾ってきた。そして地面から30cm位の高さに床を張り、アンペラを敷いて寝ることが出来ることになった。夜露と湿気、これは身体にとって最も悪いものだと、みんなしみじみ味わったものである。
 その時分の作業隊長は、陸軍の大窪少佐であったが、そのうち幕舎の環境検査が始まった。幕舎の周囲に溝を掘って雨水を流すのだが、私達は検査の時、余り注意されない程度に、適当にやっていたが、西隣の海軍さんは羊羹でも切ったように、縁を直角に鏝(こて)みたいなので塗り固めていた。

りババレー英軍作業隊

2006-08-27 11:29:32 | Weblog
 その足で軍用列車に乗せられ、シンガポールに着き、そこから歩いてリババレーの作業隊に夕方近くに着いた。
 ここで、又、所持品検査が広場であったが、今度はここの古参兵の作業隊員に地下足袋に似た靴を取られた者もいた。
 それが済んでから割り当てられた4m四方の汚れたテントに入り、8人位で土間に携帯天幕を敷いて寝た。
 次の日は環境整理。
 次の日から英軍の作業に行くことになった。日本の将校に引率されて、作業隊の門を出ると、自動小銃を持った英兵が前後についた。初めて行ったのは英軍の資材置き場であった。
 作業場に着くと人相の悪い英兵がいかつい目をして監視していた。どんな事態がこれから起きるか、みんな不安でたまらなかった。
 私達を3列に整列させた。2列か4列の整列が習慣になっていたので、一寸まごついた(私達の中隊から20人位だったと思う)。英兵が
 「4人出ろ」と手真似でいう。そして「この箱を担いでこっちへ運べ」と指示した。
 4人が1角ずつに肩を入れて担ごうとしたが、この箱は随分重いらしい。又、今までこんな仕事はした事がなかったので要領も悪かったが、ようやく持ち上げたがヨロヨロして落としそうになった。残っていた者が駆け寄って手を貸そうとしたら、英兵が真っ赤な顔をして怒鳴り、1人を鞭で打った。何を言っているのですかと将校に聞くと、「手助けをするな。4人でやれと言ったら命令どおり4人でやれ」と怒鳴っているのだと言った。
 次の箱を別の者達がやった時には、その英兵がいなかったのでみんなで「ヨイショ」と肩に乗せてやったら、うまくいった。その日は私達は箱を運んだ後は大した仕事もなく、午後5時までそこにいて帰った。
 その次の日は被服倉庫みたいな所に行った。今度はインドネシア人が監督した。ここは軽作業で被服の詰まった木箱やボール箱の運搬だった。一寸暇を見て箱に腰掛けようとすると
 「腰掛けるな」と怒鳴って手を振った。腰掛けられたのは昼食の時だけで、1日中立ちっ放しの仕事は随分疲れるものだと始めてみんな知った。
 ひと頃、朝起きて食事の前に広場に集合させられて、英国国旗の掲揚に直立不動で、敬礼する事が始まった。
 黒人の衛兵が変な号令で足を高く上げ、歩調をとって来てやっていたが、国旗の上がるときは前の者は見ていたが後ろの方では
 「何で敵さんの国旗に敬礼をしなければならんのか。馬鹿馬鹿しくて」トヒソヒソ話を始めたりしたものだ。すると作業隊本部から
 「国旗掲揚のとき、無作法な者がいると所長(英人)から注意を受けたので、今後は真面目にやるように」と指示されたが、作業隊の向こうの丘の兵舎から、双眼鏡で監視させていたそうだ。それで誰もが前には並びたがらなかった。しかし、これは10日位で廃止になった。

 

クルアン検問所 2

2006-08-26 18:52:37 | Weblog
 検問間の前に1列に整列、直立不動で挙手の敬礼。それをジロリと見渡すと、1番背の高い渡辺上等兵を指して、
 「貴方は何処に居ましたか?」流暢な日本語で聞いた。
 「ハイッ、私はスマトラに居ました。」
 「スマトラで何をしていましたか?」
 「ハイッ、飯炊きをしていました」
 「そうですか」と、その英人は書類をめくりながら、隣に
 「貴方もそうですか?」
 「ハイッ、そうであります」英人は一寸苦笑した。
 「よろしい」
 これで検問は終ったらしい。敬礼をすると右向け右、駆け足で次の携帯品検査場に行き、自分の持ち物を全部携帯天幕に並べて、検査を受ける。並べた横を英兵が通り、目ぼしい物を見つけると、一寸指をさす。《俺によこせ》という合図だそうだ。仕方なく渡すとニヤリと笑って立ち去って行く。私はやられなかったが、あちこちで検査に便乗して面白半分に取り上げられた者がいた。
 「検査終り。次の場所に集合」
 大慌てで広げた品物を雑嚢に詰め込み、4列縦隊に整列。そこから出口に向かって駆け足行進。最初の頃はこの列の後から英軍の装甲車が追いかけ、日本兵を射撃したり、倒れたのを踏みつけたりしたという。負けたんだから何事も我慢だ、我慢だと私達は駆け足で検問所を出た。

クルアン検問所 1

2006-08-25 18:47:01 | Weblog
 2月14日、【バトバハ】出発して【メンキホール】着。
 ここの宿舎で、軍隊手帳その外軍事関係のものは一切焼却処分せよということで、携行品の再点検をさせられ、殆ど身の回りの物だけになった。
 私もこの時、千人針や写真を処分したが、千人針に縫いこんであった5銭銅貨が川底に沈んでいくのをじーっと見つめていた。
 又、ここの宿舎を預かっている日本残留兵達が石鹸に不自由しているというので、みんな出してやったが、後で彼らはそうして召し上げた物資で豊かに暮らしているという話を聞いて、「馬鹿らしいことをした、あいつ等は騙しやがった」と悔しがった。
 2月15日、【メンキホール】を出発して【クルアン】着。
 ここで連隊本部からの指令。
 「明日の検問所では、連合軍の捕虜は見たことはない。仕事は飯炊きをしていたと答えよ」であった。
 2月16日、クルアン検問所通過。
 クルアン検問所はクルアン飛行場跡にあった。飛行場には日の丸をつけた戦闘機が数機、掩蔽(えんぺい)壕の中にあった。
 「なーんだ、まだ飛行機はあったじゃないか」と誰もが言った。その向こうには壊れた残骸が積んであった。飛行場の入口から滑走路を1000m位駆け足行軍をさせられた。
 周りには検問を待っている部隊が500人位いた。向こうに白いのと灰色のと黒色のキャンプが作ってあり、白色は戦犯の疑いなし、灰色は疑いあり、黒色は戦犯だということであった。時間が経つにつれて、みんなの胸は一様に不安で重苦しくなった。
 検問を受けたのは、飛行場の本部のロビーの前で、長いテーブルが置かれ、10人位の英人が椅子に腰掛け、武装した英兵が周囲を警戒していた。最初の話では5人づつ検問するということだったが、私達は10人位1度に受けたと思う。

 

移動 2

2006-08-24 19:21:39 | Weblog
私の脳裏に千切れ雲のように突然浮かぶ風景がある。両側は緑一杯の道を私達は何処へとなく2列に並んで歩いていた。そこに屋根瓦が葺かれ、壁は淡いクリーム色に塗られた家が現われる。そこの薄暗い1室の奥から白い上着、サロンをまとったインドネシアの女が2,3人現れて
 「トアン、コッピー」と言ってコーヒーカップを差し出した。
 私は思わず立ち止まって受け取ると、グーッと飲み干した。喉が渇いていたので本当に旨かった。
 カップを台の上に置き、手で口の辺りを拭うと、
 「テレマカシイ(有難う)」と、頭を丁寧に下げて又歩歩き出した。後からの兵隊達も次々に飲んだ。
 終戦と同時に現地人の我々に対する態度は冷たく急変していた時だけに、このコーヒーの1杯は何より嬉しかった。これは多分【ベラワン】港に行く途中のことなのだろう。春の色のように淡い黄桃色のふんわりとしたパステル調の中に居るような…このメルヘンの雰囲気は一体何であろうか。
          ……    ……
 昭和21年2月3日、移転の為【ベラワン】出発。
 最初、スマトラ島に上陸してから、19ヶ月余にして又今度は敗残の身で再びマラッカ海峡を渡った。
 2月6日、マライ【バトバハ】上陸。
 この辺りの記憶は全然無い。

移動 1

2006-08-23 09:50:30 | Weblog
 その2日位前、中隊長が全員を広場に集めて、
 「今、南方軍司令部から指令が来たが、これからの我々の行き先だが、本来なら、シンガポールの少し先にあるガラン島に行くことになっているが、この島は無人島でなにも無い。宿舎施設も自分達で作らねばならぬ。又、シンガポールの英軍作業隊に入れば、仕事は多少辛いかもしれないが、日本に早く帰ることが出来るそうだ。私達はこの事をよく検討してみて、シンガポールの作業隊に入ることに決定した」と、訓示して、出発の日程を発表した。私達は
 「日本に早く帰れるなら、シンガポールの作業隊の方が良かろう」と言い合った。さあそれから、移動準備が始まった。
 ここに来てから、自活班が作られていた。肉を自給する為、山羊や鶏が飼われた。山羊の飼育は思ったより難しく、よく死なせて上司から叱られていたが、鶏は成績は良好だったらしいが、卵は専ら作業当番員の口に入るだけだったらしい。それでも山羊の頭数は増えていった。
 移動の為、撤収することになって、これをどう始末するかが問題だったが、鶏は数が少なかったので、簡単に片付いたが、山羊は殺して肉を塩漬けにして持って行くことになり、作業が始まり、通りがかりに一寸見たが、肉は6m四方位の土間に並べて塩漬けにしてあった。後で担当だった人に
 「あの肉はどうしたか?」と聞いたら
 「腐ったので捨ててしまった」と言っていた。
 移動準備完了。私達の中隊は徒歩で宿舎を出発した。ピーヤの所では、ピー達が正装して「トアン、トアン(貴方)」と呼びながら何時までも手を振っていた。

ピーヤの廃止

2006-08-22 18:55:25 | Weblog
 ピーの衛生検査が定期的にあった。性病の検査だ。軍医とそれに若い将校が2人位ついて来た。1人1人部屋に呼び込んで検査をしていたが、
 「斉藤、一寸来い」と軍医が呼んだ。「何でありますか」と聞くと
 「入って来い。良いものを見せてやるから」「ハイッ」私は回れ右をして、そこから離れた。若い将校が笑っていた。
 その後で検査書を見たが、住所、氏名、生年月日、結婚の有無、病歴、それに下腹部の状況、どこにホクロがあるとか、どこが肥大しているとか、性病に罹った事の有無とかが詳細に書いてあった。
 ある時、1人の若い女がここを尋ねて来たので、矢野軍曹と私で応対した。
 「何をしに来たのか?」「仕事をしに来た」「ここは何をする所か知っているか?」「知っている」「どこから来たか?」少し離れたカンポン()から来たと言う。「どうしてここを知ったか?」
 「の人から、ここへ行けば綺麗なバジュ(着物)を沢山くれるし、お金も貰えるというのを聞いた」
 「家の父母には言ってきたか?」「言って来た」
 苦心惨憺の会話であった。矢野軍曹が
 「我々は長くはここに居ない。何時出て行くか分からないので、雇う訳にはいかない」と説明したが、なかなか立ち去ろうとはしないので、一寸した物を持たせて帰ってもらった。
 こんな事があってから1週間位した時、矢野軍曹の予言が的中した。南方軍総司令部からの命令で、ここを引き払う事になり、ピーヤは廃止になった。
 ピー達には持てるだけの布地を分けてやり、お金も都合のつくだけは与えてやった。ピー達はみんな別れを惜しんで、その夜、自分達の手作り料理で、お別れパーティを開いてくれた。
 夜遅くまで、歌ったり、踊ったりした。【サトチンチンブルマター】という踊りの歌詞だけは、まだ覚えている。それからお別れの時の踊りといって、悲しそうな唄に合わせて、女全員が踊り、涙を浮かべて名残を惜しんだ。
 つきあって見れば、良い女達ばかりであった。