「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ピーヤ当番 1

2006-08-20 10:37:31 | Weblog
 滞在が長くなり、ここでも慰安所ができた。各部隊、日割りが決められ、その日になると「行きたい者は券を貰いに来い」なんて通達があり、私達の中でも券を貰いに行く者もぼつぼついた。
 ここの責任者は矢野鏨一軍曹で、その下に兵隊が1名いて糧秣の受領その他の雑事をしていた。この兵隊とあるピーが仲良くなり、物資の横流しとか何とかやったらしく、勤務替えになったそうだ。そんな話を聞いた翌日、私は人事係りに呼ばれた。
 「斉藤、お前ピーヤ当番をやれ」
 「ピーヤですか、ピーヤ当番なんて嫌です」と断った。終戦前なら命令一下でやられていたんだが、現状は少し違っていた。
 「まあそう言わんでやってくれ」としきりに頼むので、
 「もし、ピーが言うことを聞かん時は、叩いても良いですか」
 「ああ良いとも、言うことを聞かんときには叩け」
 「それならやります」 叩いてよいと許可を貰ってから引き受けた。それから毎日弁当を持て当番に行った。
 私達の兵舎から500m位離れ、道からお国50m位入った所に、元オランダ人のゴム会社の社長宅があり、そこが司令官中佐殿の宿舎で、そこの入り口の元、バブ(下女)、ジョンゴス(下男)達の住んでいた一棟6室がピーヤになっていた。
 この屋敷は広く、大きな樹が繁っていて、猿達が時おり遊びに来ていた。腹のところにしっかりとしがみついた小猿を連れた母猿もいたが、ピー達は猿を見ると怖がるので、程よく追い払ってやった。
 ピーは現地人で5人。各々1室をあてがわれていた。真ん中の1室は責任者の部屋で、遊びに来た兵隊から券を受け取ったり、ピーの管理をしていた。私は室にはあまりおらず、専ら外回りを箒ではいたり、時には水を汲みに行ったりして、時間を潰していた。
 食事はピー達自身で当番を決めて作っていた。鶏を料理するのを見たが、羽根をむしって、火を一寸燃やして、毛を焼き、内臓を取り出すと、後はバラン(日本で言うならナタ)で大きく叩き切っていた。肉がとか骨がとか言う日本式とは違うなあと感心したものだ。