「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

電信第六連隊 1

2006-04-30 15:11:28 | Weblog
 営庭に整列して、名前を呼ばれた順に所属中隊が決まり、私は第2中隊第2班に配属された。兵舎は東西に長く並んでいて、本部、1中隊、2中隊 3,4,5中隊と平屋が北に建てられ、最後の棟は6中隊で、1人前の通信ができる既習者で上田十蔵君は辰巳運送で電信業務をやっていたのでそちらにまわされ、すぐ国境警備に行ったという。松田君のことは知らない。 兵舎は2重窓、真ん中を廊下が貫いて各班内には左右2段ベッドが並んで、上段には古参兵がいた。2班に入った同年兵は扇崎(千丁町)佐藤(八代市)ほか2,3人がいた。 2週間位してから、人事係の准尉に1人づつ呼ばれた。原籍簿を見ながら家庭の事情、今迄の職歴を聞いた後、「ラジオ受信機を作ったことがあるか」 「作った事はありませんが研究をした事はあります」「一寸柔和な顔をしとるから戦闘には向かないな。ヨーシ無線通信手だ」との宣託を受けた。 班に帰ったら古参兵が「斉藤 お前何に決まった?」と聞くから「ハイ、無線通信手であります」 「ヘエーお前が無線通信手か」 [でも俺だって無線通信手くらいにはなれるさ]と思っていたが、後になって大変なことだと分かった。
その翌週から初年兵は無線通信手、有線通信手、その中から自動車部隊、挽馬部隊に分かれ、有線の架線工事の部隊にと細分化されていった。  
 通信手の教育は、通信講堂で1週間に5日行われた。講堂には端子のついた机を50位、4列に並べられ、小学校の教室のような感じで片方に教壇があり,黒板が掛り、両側の隅にペーチカが据わっていた。 最初、右手の関節の検査、ブラブラさせてみて、欠点のある者は不適格者として、自動車部隊とか挽馬隊、架設隊に落とされていく。次に通信の助手が懐中時計を持って「カチカチという音が聞こえたら右手を上げろ!」と言って腰掛けている後ろからゆっくりと廻ってくる。聴力の検査で又、落とされていく。 次に口で符号のト、ツー、トの発声練習、トが点、ツーはトの3倍、字隔はトの2倍であった。 それらの検査が済んでから通信手1人1人に大理石台のズシリと重量感のある電鍵が渡された。
 
 

満州へ

2006-04-26 10:47:07 | Weblog
10月23日、午前1時頃、私達は軍装を整え隊伍を組んで営門を出て佐世保駅に向かった。途中は灯火管制で真っ暗闇、ところどころ歩哨の懐中電灯らしきものが見えた。見送る人は誰もいなかった。私達は黙々と行進して行った。突然、「〇〇は居らんか、〇〇は居らんか。」と年老いた男の声が大きく響いた。4.5度叫んで列に近づいて来たが、返事をする者はいなかった。きっと父親が息子に一目会いたいと思って来たのだろうが、何か提灯のようなものを持っていたようだ。すぐ憲兵に押し止められて闇の中に消えて行った。
 24日、博多着。博多港から軍用船に乗せられた。その日の玄界灘は荒れていた。白い布に包まれた銃は船室をあちらにゴロリ、こっちにゴロリ、お互いにぶつかり合って、銃の木質部に傷をつけてしまった。同日、釜山港着。上陸。軍用列車に乗車、北に向かって走る。列車の窓は覆いを下ろして外の景色は全く見えず、時たま赤い光が一寸の隙間から漏れた。きっと興南の窒素工場の辺りだろうと推察した。便所に行ったついでに一寸デッキに出て見たら、スチームの連結管が氷結していた。えらい寒い所に来たぞと思った。
 27日、朝満国境(図門)通過、列車は走ったり、止まったり、窓を開けろと命令が出たかと思えば閉めろと命令が出る。こんな事が暫く続く。ソ連との関係でこんなことをやっているのだと言う。
 29日、牡丹江駅着。夜中だった。降りろと言うがホームは無い。客室のデッキから線路脇に飛び降りる。辺り一面は凍りついていた。線路をいくつも跨いで集合地へ集まる。それから引率の兵に続いて歩く。道は凍りついていて歩くのは大変だ。あっちこっち転ぶ者がいた。私も転びそうになって危うく立ち直った。引率の者は平気でサッサと歩く。後で分かったのだが彼らは防寒靴を履いていて、靴裏にゴムが貼ってあるので滑らないのだ。私達のは鉄の鋲が打ってあるので、スケートよろしく滑る訳だった。 駅から兵舎までの距離は一寸遠かったように思う。

西部七十五部隊 (2)

2006-04-25 23:10:29 | Weblog
 海軍の水兵さん達が教官らしい人に追いまくられて駆け下っていった。福崎観音様は裾の道端に並べて祀ってあった。
夜は消灯ラッパでベッドに寝た。ここの消灯ラッパは今まで聞いたうちでは一番上手に思えた。あの最後の長く尾を引いたところがとても綺麗で悲しかった。電信第六連隊の消灯ラッパはこれと比べたらとても下手くそで感情も何もなかった。家庭、家族と離れた年老いた召集兵達は冷たいベッドの中で、この消灯ラッパを聴いて眠りに誘い込まれていくのだった。
 そうして半月程経った頃「今度、お前たちに本月20日の日に面会が許されることになった。家族の有る者は面会に来るように葉書きを出してよろしい。」と班長が伝えた。言葉の裏に何か有るような気がして、皆、故郷の家族に葉書きを書いた。
 面会の日はどんな日和だったか、多分晴れだったろう。営庭は朝から一杯の人々で賑わった。私も名前を呼ばれて面会所に行った。面会所といっても営庭のひとすみだが、下有佐のお父さんと和子をおんぶしたアヤ子がネンネコを羽織って来ていた。何を話したかよく覚えていない。しかし、和子が「トウチャン」と呼んだのだけは今でもはっきり耳の底に残っていて、思い出す度に頭がジーンとしてきて たまらなくなる。
下有佐のお父さんは煙草が好きだったから班で支給された「ほまれ」とその他に販売所から買って来て渡したことを覚えている。私達の周りにも幾組かの人達が語り合っていたが、すぐ隣に若い伍長さんと奥さんらしい人が特に目にとまった。きっと新婚早々召集されたんだなーとかわいそうに思った。面会時間はそう長くなかったようで3人は帰って行った。面会があった次の日から急に忙しくなって 軍服も戦闘帽も新品で今度は大体身体に合ったもの、背嚢、水筒、雑嚢等が支給された。21日にはグリスで錆止めされ、白い布に巻かれた99式歩兵銃が各人に渡された。その日の午後、営庭で記念写真が撮られ、夕方から壮行会が開かれ、こも被りの酒が出た。又班長から「お前達はこれから他の隊に行くが、行ったら先輩の事は絶対に言ってはいかん」と注意があった。それから、隊の人が「白衣の天使」を寿ゝ木米若節で浪曲をやってくれたが声量も豊かで質もよく、皆うっとりと聞きほれた。
 


西部七十五部隊(佐世保重砲大隊) 1

2006-04-24 23:04:11 | Weblog
その翌日,家の人に送られて2人で佐世保西部七十五部隊に入隊した。そこで着ていた国民服を脱いで支給された作業服に着替えた。着替えた服は忠雄さんが持ち帰ったようだった。佐世保と言えば海軍と決まっているようだが「あーたは何処に召集ですか」「佐世保です」「そんなら海軍ですか」「いいえ、陸軍です」「佐世保に陸軍がありましたかナー」「いや要塞砲の重砲大隊があるのです」「へー」相手は変な顔をしたものだ。勿論陸軍はここだけ。後でここの先輩に聞けばシンガポール攻撃にここの重砲を持って行ったとか言っていた。
小さな兵舎に大勢の招集兵が入ったのだから便所なんか大混雑。朝の集合に間に合わぬという事が起きてきた。ある日、招集兵を集めて「何か言いたいことが有るか」と聞かれた時皆が「便所を増設して欲しい」と希望したが「そうか」と言っただけでどうもして貰えなかった。私は夜中(明け方近く)に起きて大便を済ませる事にしていた。そのうち被服の支給があったが招集兵を1列に並べておいて一人づつ靴、軍帽を取りに来らせるのだが、靴は箱の中から一足になったのをポンポン放り出して拾わせる。招集兵はそれを拾って次の帽子の所に走っていってホイと放り出される軍帽(戦闘帽)を拾って来ることになっていた。靴は足の文数なんかおかまいなし、中には右足だけ、左足だけのものもあった。[どうかして下さい」と言えば「自分達で良いようにやれ」と言って取り上げて呉れなかった。仕方がないのでお互い同士、大きいの小さいの取替えっこをして、後では良くしたもので大体納まってしまった。靴は私には合ったのが当たったように思う。
帽子はホルマリン消毒がしてあったとみえて被ると頭の周りがヒリヒリした。それを言うとこれも「そのうち良くなる」と言って取り合わなかった。しかし後ではヒリつかなくなった。
軍服も身体に合わせるのではなく、「服に合わせろ」ですべてそんな調子であった。
教育は敬礼の仕方とか閲兵分裂の行進とかであったが後で銃が渡され執銃訓練となった。銃は38歩兵銃、騎兵銃やらなにやら取り混ぜて長いのやら短いの、新しい物、古道具屋の店先にありそうなやつを担がされて徒歩行進、捧げ銃、銃の担い方を習った。時には佐世保市郊外のグランドみたいな広場でやった。又ウド越えで相浦までの行軍があった。峠の軍港を見下ろせる方向には板塀がされ、何も見えなくしてあった。又、福崎観音にも連れて行かれた。ここは一寸小高い丘になっていて軍港が見渡せた。

召集令(2)

2006-04-22 22:24:17 | Weblog
 印にゃく神社で武運長久の祈願祭。上田十蔵君,松田君と3人、最年長の上田君が謝辞を述べた。それから有佐駅まで小学生のブラスバンドで,当時鏡ガ池の近くの池田ハジメさん宅を借りて居られた,久谷さんの長男の鏡小学校の先生をしていた人が指揮をして送ってくれた。
召集の時には役場の兵事係が付き添って行くのだが私の時には芝口の村崎忠雄さんが行き、役場の人は見なかった。列車で有佐駅を出てからデッキで見送りの人に手を振ったが私は東側に居たので上鏡の久保さんは見たがアヤ子達は西側に居たので目にかからなかった。
佐世保に着いて忠雄さんの案内で川上の光永節男さんの奥さんの実家で1泊した。その家は坂の中程に建っていて細長く上の方に続いていたと思う。

召集令(1)

2006-04-21 19:33:56 | Weblog
 私に召集令が来たのは、10月22、3日頃か、日曜日でもあったのか小屋の入り口を一寸入ったところに藁むしろを敷いて手で小縄を練っているときだった。
役場の小使いさんが「来ましたよ」といって赤というよりも朱に近い令状を渡して帰っていった。「とうとう来たか。」と私は受け取ったが緊張感にあふれた。
当時私は鏡町産業組合に会計係として勤めていたので、事務引継ぎ、申し送り等で忙しかったがそれが済んで、朝日旅館の一室で送別会が催された。町長であり産業組合の組合長でもあった濱田敬吾さん、事務員の販売係の永田末芳さん、購買係の満田秋男さん、貯金係の上島清子さん、役員では理事の上鏡の早川末松さんあたりが来て居られたようだった。それから稲を刈ってしまわねばならんと農作業計画を立てて10月27日前には終るようにしたと思う。旧道の上の稲をアヤ子と2人で刈ったことは今でも懐かしく思い出される。
 10月31日出立ちの時は座敷から表までお客が一杯だった。家を出る時親父に「行ってきます」と言ったと思うが、親父がなんと言ったか記憶がない。しかし、これが今世の永遠の別れになるとは思ってはいなかった。

2006-04-20 19:06:25 | Weblog
 小学校の国語読本にあった「冬の夜」に
「囲炉裏のはたに縄なう父は過ぎし戦の手柄を語る 居並ぶ子供は眠さ忘れて耳をかたむけ拳を握る」という1節があり、又、戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」とあるように、必ず勝って帰ることと教育され、敗残の身では生きては到底故郷に帰れないものとされていた。それでも私がシンガポールから復員して42年の歳月が流れた。思えば早いものだ。
 応召の4年間,父は何処で何をしていたのか,子供達は知りたいかもしれない。又,私も生きていた一端の証として,平凡な一兵士としてのものを書き残しておきたかった。遠い昔物語りではあるが、子供、孫達が、何かの折に手にとって懐かしんでくれるかも知れない。
 そんなことを考え敢えて「私の従軍記」なる題名をつけて書き綴ってみた次第である。
 平成元年11月3日