「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

転属 1

2006-05-29 19:33:46 | Weblog
 5月17,8日頃,人事係りの部屋に呼ばれた。
 「斉藤、お前は家庭の事情があるから、内地の三重県宇治山田転属だ。27日出発だから準備をせよ。被服係に行って、支給を受けるように」と人事係が言った。内地の宇治山田と聞いて「ハイッ有難うございました」と敬礼したものだ。
 被服係に今までの官給品を返納して、転属用のを貰ってくると班の古参兵達が「何だ、今までのより程度が悪いじゃないか」と言った。
 転属する時は、全部新しい物を支給することになっているのに、私のは中古品ばかりだったらしい。聞くところによれば、転属兵には廃棄品を新品とすり替えて渡し、帳簿面は新品を支給したようにして、在庫を浮かすのだそうだ。
靴のことは何も言わぬので
「どうしますか」と聞いたら、
「そこらの中から良いのを履いて行け!」と怒鳴られた。私も《知っちゃいねえ》と靴棚の中からよさそうなやつと履き替えてやったが、替えられた奴は一寸困ったろうと思う。
 20日の出発の朝になって、班の古参上等兵が何か私に命令したので、それを探していたら、別の上等兵が
「斉藤、お前何をしてるのか」と聞くから、古参上等兵から命令を受けて探し物をしていると答えると
「お前転属だろう。申告しなければならんのだから、そんな事は放って早く行け」と言ってくれたので、すっ飛んで班に帰り、軍装して本部前の広場に行ったが、もう申告は済んでいた。
「斉藤、お前何をしていたんだ。申告に遅れたじゃないか」と田口上等兵に怒鳴られた。転属間際まで意地悪された。
 その時、電信第6連隊から転属した同年兵は西村仁作(佐賀)、吉川文造(長崎)、千々岩覚(熊本県水俣)、松尾重利(福岡県大牟田)、中川 師(熊本市)と私の6名。
 連隊から牡丹江駅までトラックで送ってくれた。客車の中で仲舘(なかだて)上等兵が居たというが確かではない。田口上等兵が
「俺がお前達を掌握する」とか何とか言ったそうだが、東北弁だったのではっきりしなかった。

一等兵に

2006-05-28 13:37:09 | Weblog
  命一等兵 昭和19年5月1日附 
 襟章の赤い床に黄色の星
が1つ増えて2つになった。襟章を替えている私達に古兵殿は「俺達をナメるんじゃないぞ」と凄んだ。上等兵達が古兵の1人(1等兵)に「お前、ラッパは吹けないか、ラッパが吹けると上等兵になれるかも知れんぞ」と勧めていた。その古兵はラッパ吹きになり、衛兵のラッパ手として往き来していたが、上手く吹くまでには随分日数がかかった。ここのラッパは佐世保重砲大隊のとは比較にならぬ位下手であった。
 ある朝、衛兵に立った者が帰って来ていった。
「昨夜は恐ろしかった」
「どうしたんだ」
「実は西門の歩哨に立ってね。あそこの直ぐそばに、病院(牡丹江陸軍病院)の死体置き場があるものだから」
「それがどうしたんだ」
「幽霊がでるんですよ」
「ヘエー、出たのか」
「しっかりとは分からなかったけど、硬直したのがいつも2,3体置いてあると言いますからね」
 幽霊が出るとか、人魂が出たとか言われていたが、若い兵隊間に西門の歩哨は嫌がられていた。又、実際見たという者もいた。
 1月の中頃だったか、幹部候補生の募集があったが、募集というより命令であった。中等学校卒業者は甲種。これは士官学校に行って将校に、3年制以下の者は乙種で下士官を養成するのが目的で、甲幹を受けても成績によっては乙幹に回される者もいた。
 しかし、甲幹の訓練はさすがに激しかった。朝早くから夕方遅くまで、汗と泥にまみれて教育されていた。
 進級は1ヶ月に1階級上がっていた。彼らが伍長くらいになったとき、洗面所で1緒になった。私は1等兵。「おい、敬礼しようか」と言ったら、「馬鹿いえ」と照れくさそうに応えたが、傍を現役の初年兵が変な顔をして敬礼して通って行った。勿論、こんな所を意地の悪い古参兵に見つけられたらビンタもの。
 ある時「甲幹は大変だなあ」と言ったら「なあに、当番がついているからいいよ」と誰かが言ったが、演習から帰って汚れ物を抱えて洗濯場に駆け込んでいるのをよく見かけたものだ。
 私は生来人見知りが下手で、一寸会っただけでは姓名をなかなか覚えきれずに、非常に困った。
 班長当番についたとき、1班と自分の班長の見分けがよくつかなかった。室は隣同士、背丈も体格もうり2つ、顔も東北か、北陸辺り出身の色の白い美男子だった。班長はめったに班に顔を見せたことはなかった。勿論、朝夕の点呼の時は週番士官と一緒だったと思うが、無口の人らしく、当番には声も掛けてはくれなかった。何か演習に行くとかで、飯盒の副食に鮭の切り身がついたことがあったが、私はそのまま中蓋に入れてやった。帰られてその飯盒をとったら紙片が入っていた。「今度から焼いて入れてください」と書いてあった。鮭は生だったらしい。しかし、その班長は別に何も言わなかったし、ビンタもとられず、1週間も終った。
 1期の検閲が終って私達にも少し余裕が出てきた。
 転属者が次から次に出て行って班内も人員が少なくなってきた。

 

通信教育の中から 2

2006-05-27 22:51:45 | Weblog
 次が2号乙無線機、これは送信電源にガソリンエンジンを使うのであるが、戦場では排気音をどうして低くするかが問題点で、消音器の蛇管の排気口の方向、処置に苦心して防音板を立てたり、草で被覆したり、溝を掘って利用するとか、これは理屈だけ教えた。
 その次が空中線の張り方の教育であった。教官と助手2人で私達5人位に柱の建て方、支線の貼り方等について1日中やらされて終わりになった。
一期の検閲の前に印字機を使って数字を打たせた。そして物指しで点と線、長音、その間隔を測った。このテープは電信第6連隊にお前達の氏名を記入して永久に保存するといっていた。

通信教育の中から 1

2006-05-26 19:28:13 | Weblog
font size="3"> 暗号の教育もあった。暗号は4桁の数字を順繰りに受け、その数字に乱数表をあてて上の数字から下の数字を引く、その場合引かれぬ数字は隣から借りてくるのではなく、各列独立して引き算をする。そうして出た数字を暗号書で捜すのである。
 乱数表は1日1枚で何月何日はどのページを使うという事が、秘密指令で定められているので、この乱数表が盗まれない限り外には分からない仕組みになっていた。飛行機乗りはその日1日分だけの乱数表を持って出発する。
 暗号教育が終るとすぐ用紙類は回収して、焼却された。筆記する等禁ぜられた。
 次は無線機の取り扱い教育があった。私達に専ら教えられたのは3号甲無線機で、軍事秘密兵器だということを繰り返して言いながら操作教育をされた。
 3号甲無線機は受信部には電池を使い、スーパーヘテロダイン方式でコイルは周波数によって差し替える。送信部の電源は手回し発電機をグーコ、グーコーと2人が両手で回した。発振方法には自励発振と水晶発振があったが、前者は周波数が変動しやすくて、受信しにくく野太い音であったが、後者は水晶片によって制御される為、周波数の変動が少なく綺麗な澄んだ音で、すぐ分かった。
 この機械は初年兵が通信当番の時に、古参兵が発電機を受け持った場合、ワザと早く回したり、遅く回したりしてくれるものだから、電圧が上下して空中線電流が強くなったり弱くなったりして困る場合があり、古参兵の気嫌に気を使いながら送信しなければならないこともあった。

軍歌演習

2006-05-25 19:22:20 | Weblog
 電信第6連隊の隣に牡丹江陸軍病院があった。軍歌演習はその近くに行ってよくやらされた。病院のほうを向いて盛んに怒鳴り上げたものだ。マア、日頃の軍隊生活の鬱憤晴らしはこの時とばかり、歌うより怒鳴るように「戦友」とか、いろいろやった。心の憂さ晴らしであった。 軍歌演習の助手は砲兵出身だったらしく“大和魂 火筒に込めて 撃てよ世界に 夜明けの鐘を 我等は砲兵 御国の護り”をよく歌わせた。
 同年兵に竹本という無線通信士がいたが、私と班は違っていたがよく話をした。眼鏡をかけた背の高い色の白い好男子で、北白川宮家の音楽家庭教師をしていたという。歌は上手かったが流行歌は声帯が壊れるからといって歌おうとはしなかった。
 彼が陸軍記念日の時だったか歌うのを聞いたが、五十嵐喜芳(テノール歌手)が歌うような歌曲を主に歌った。顔も五十嵐に似ていたようで、何かすっきりした人柄だった。
 ある時、彼に「近頃の歌手は流行歌手を含めて、語尾を震わせて歌うがどう思うか」と聞いたら、「あれは刺身でいうなら、ツマみたいなものであれをあまり使うとツマばかり多い刺身みたいになって、かえってまずいと思う」と言った。
 それから宮家から慰問袋が届いたということが知れ渡り、本部に行ったのか姿を見かけなくなった。
  
 4月29日 天長節の記憶はない。

遺言書

2006-05-24 09:45:21 | Weblog
 ある時、紙と封筒が渡されて、『遺言を書き、爪を切って封筒に入れて、官、等級、氏名を書き、事務所まで届けろ』との達しがあった。《いよいよ何かあるな》とそれぞれ書き、爪を切って封筒に入れて全員出した。こんな事は満州にいる間に2回くらいあったと思う。遺言といっても月並みな事しか書けなかった。何故ならば、人事係の准尉が検閲するから、その内容が人事異動その他何かにつけて不利に作用する慮が充分にあり、変なことを書いて、死ぬと分かっている所へ転属させられても始まらないからである。兵隊の心の奥底には、こんな思いが潜んでいたことは事実だ。
 このあいだ、古いタンスを整理したら、その時の遺言書が黄緑色の奉公袋の中から出てきた。
    横  7,8センチ  縦  12センチの枠の中に
  認識票      号(番号の記入なし)
    満州第760部隊歌丸隊
   遺言書
   遺髪 (遺爪)
   受取人   斉藤 アヤ子殿
   熊本県八代郡○○町字○○   番地 
中には2ミリから3ミリの髪の毛が入っていた。
 遺言書は横14,7センチ 縦21センチのコクヨの便箋15行に書かれたもので

     遺言書
  海行かば水漬くかばね 山行かば草むすかばね 大君の辺りにこそ死なめ
 かえりみはせじ 軍人として御召しを受けた以上死は覚悟の上である。
  故に如何なる事態が起きても決して驚いたり悲しんだりしてはならぬ。当然起こるべき事が起きたに過ぎぬからである。自分の人生観を知っている貴下に対して改めて死生一如の死生観は述べない。
  1、多年の貞節に対し報いる事の無かりしを残念に思う。
  1、貴下を信ずる故 総ての事は貴下に一任する。
  1、子供は強く正しく明らかに物的をはなれた精神的人間に育てよ。
  1、将来必要起こらば祖先伝来の遺産といえども処分されてよいこと。
  1、父は老年故然る可く孝養されること。
  1、もし自分に変化あり御国よりの援助あらば皇恩の広大さを感じ 愈々(いよいよ)身を正し皇恩の篤きに応え奉るべし。     以上
                         斉藤 ○○
 斉藤 アヤ子殿
 封印され「死後開封」となっていたがアヤ子に聞いたら、着いたら直ぐ開けて見たとのこと。
   満州国牡丹江
    第48軍事郵便所気付
      満州第760部隊歌丸隊
        19、1、26  前8-12
 この軍事郵便の消印から見れば昭和19年1月20日頃のようだ。
 又、一装の軍服が支給された事があった。上、下ともラシャの新品、軍帽も正式のピカピカである。これは第一線に赴く時に渡されるとかねがねから言われていたから「スワ何事か」と緊張したが、後で山下奉文関東軍司令官の検閲がある為と説明され、1週間位してから返納させられた。
 山下奉文司令官の宿舎は細長い3階建ての窓の少ない家で、公用で外出した時、教えられた。牡丹江の町外れには、あちこちトーチカが銃眼を見せていた。

雪解け

2006-05-23 19:29:50 | Weblog
冬は一面に凍って、牡丹江の町まで田畑を横切って、直線に歩けたが、解けるとやはり道路を行くので、随分遠回りになり、時間もかかるようになった。
 雪が終ると営庭の土が少しづつ現れはじめ、草の芽が出て1日1日青くなっていった。兵舎の屋根に乗せてあった土塊からも青い芽が伸びた。古参兵達は営庭からノビルを採ってきて、小さく刻んで飯に振りかけて食べていた。
 雪が解けると靴が汚れる。折角、綺麗に磨いてやった上等兵の靴も直ぐ泥だらけにして、靴棚に放り込んであるのを見ると「やれんなあ」とうんざりしても、仕方がないので又、磨き直さなければならなかった。 靴磨きも班の前の庭に5,6足持ち出して保革油(羊の油)を付けて磨くのだが、その最中に将校が通る。「敬礼!」と言って、ブラシを右手に握ったまま立ち上がって敬礼をすると、その珍妙な格好を見て将校はニヤリと笑って通り過ぎて行った。ブラシを握ったままの敬礼は本来ならばビンタものであった。
 裏山に挽馬部隊の馬の墓場があった。そこで若草の上に寝転がっていた時「これが福寿草だ」と教えてくれた助手もいた。又、空き家になった4中隊の兵舎の横から白樺の切端を見つけて、箸を作り大事にしていたこともあった。
 又、道端の所々に大きなの木があり、根元には小さな祠が祀ってあった。墓場も演習の時トラックから見たが、木棺から足の骨みたいなのが突き出ていた。棺はいくつも乱雑に置いてあった。

冬に…

2006-05-22 19:21:30 | Weblog
 又、中隊に風邪が発生した。外出した者が持ち帰ったか、演習に行って拾ってきたか分からないが、衣類は全部煮沸消毒し、毛布フォルマリン臭のついた新しいのと取り替えた。
 南京虫もいた。古参兵が柱の割れ目を探して潰していたが、私は見た事はなかった。
 連隊の衛門から30メートル程の所にバスの停留場があって、朝、牡丹江行きの木炭バスが停まり、満人がガス発生機の所で手を暖めていた。バスは調子の悪い時には、発車に時間がかかるようだった。丁度、2中隊の私の班の真向かいでよく見えた。
 水道の水は牡丹江川から引いているとの事、生水を飲めば伝染病に必ず罹るといって絶対飲まないように厳命されていた。外出しても飲食物には充分注意するように、満人の売っている肉饅頭は食べてはいかんと言われていた。
 よく水道管が破裂して道路の横に50センチ位、氷が盛り上がっているのを、朝の駆け足訓練の途中見かけた。

満州の夕日

2006-05-21 12:26:56 | Weblog
 満州の夕日は赤く、大きかった。軍歌「戦友」の『赤い夕日の満州に…』とあるように、山の端に2メートルもあるような、本当に赤い、赤い夕日が辺りを真っ赤に染めながら沈んでいった。誰でも満州の夕日は大きくて赤かったと、異口同音にいう。
 牡丹江は盆地のような所の真ん中にあったようだ。夜中にフト目が覚めると、駅の方から汽笛が聞こえた。凍てついた空気を震わせてボーッと鳴った。そして周りの山々にこだまして、エコーが長く長く続いてうら悲しく聞こえた。
 まだ蒸気機関車の頃、人吉に泊まった時、やはり同じような汽笛の響きを聞いた。もう、蒸気機関車が廃止されたので、このうら悲しい思い出の響きは二度と聞けない。
 ある時、将校官舎に使役に行った。丁度、和子くらいの女の子がいて、とても可愛かった。それから、一寸風邪をひいてしまった。張りつめた気分が、自分の子と同じ年頃の子供を見て緩んでしまったのだろう。

入浴

2006-05-21 11:54:53 | Weblog
入浴1週間に2回くらい各中隊、順番繰りに回ってくる。浴槽に手ぬぐいをつけることは厳禁で、ザブッとつかると暖まりもしないうちに「上がれ!」の号令で、競争で身体を拭いて作業衣を着て、外に列を作って出る。すると手ぬぐいは棒のようにカチンカチンに凍ってしまった。これは第1回目の入浴風景。私はいつの間にか股のところに銭タムシができて、医務室から「甲幹の所の風呂に入れ」の指図を受けてそこに入っていた。しかし、「あいつは我々より早く入っている」と甲幹達が言っているのを耳にしたので、前ではなく後に入るようにした。治療は受けたがなかなか治らず、これを連れて、私は南方に転属して行った。中隊の医務室のタムシの治療は、ただ、サルチル酸を塗るだけだった。
 ここの衛生兵が死んだ。ペーチカの石炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスの中毒死という事だったが、「いや、薬物による自殺だ」「○○を飲んだそうだ」「牡丹江のピー(慰安婦、売春婦など)に足繁く通って、どうにもならなくなったからだ」「医薬品を外に持ち出したのが判ったからだ」とも言われた。しかし、彼が自殺してから、医薬品の在庫調査をしたら、相当の不足品があることが分かったという。
 ある日、「今日は入浴場をガス訓練する」とガス班の兵隊の内緒話を聞いたので、どんな事になるのかと遠くから見ていたら、ガス筒を投げ込んだらしく、大混雑になって半裸状態で逃げ出すのが見えた。しかし、今日は入浴者が少なかったので、怪我人は出なかったそうだ。又、暖かかったので良かった。