「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

コタラジャ 3

2006-06-30 00:25:04 | Weblog
 この時、シグリの野戦倉庫がやられた。後で、タケゴン(アチェ州)に移駐した時、トラックでここを通ったが,見るも無残に爆撃を受けて、焼け、破壊されていた。あの時やられたのだなーと感慨一入であった。
 コタラジャの町は「ラジャ」即ち「」、「コタ」は「」で王の町。アチェ王国発祥の地で、スマトラ島西北端にある軍事上の要地であったので、海軍も多く見かけた。
 通信所の裏の通りに現地人の物売りがよく来た。ある時、マンゴ売りが来た。「一つ幾らか?」と聞くと幾らだと言うが、三つ、四つになると計算が怪しくなる。五つ以上は分からなくなる。「それじゃ一篭全部ではどうだ」と聞くと、変な顔をして考えるが「分からん」と言う。終いには10個位の値で「バグス」(上等)と言う。そこで私達は俸給を出し合って、一篭全部買い取った。現地人は「テレマカシー」(有難う)と言って喜んで帰って行った。私達は「あいつは馬鹿だから計算できんのだ」と、笑ったが、こんな事はよくあった。
 そのマンゴ、現地人はゴをガとゴの間ぐらいに発音していた。一篭も買って多すぎるので、通信所の中に放って置き、誰でも自由勝手に食べるようにした。誰でも1つ、2つと食べていたが、それから2,3日したら、頭が何だか重くなり、動悸がするような気がしてきた。
 他の者に言うと誰もがそうだと言う。
 「きっと、マンゴの食い過ぎだ。あれは精力がつくと言うから、今度から1日に1個にしよう」となり、そうしたら、その症状は消えた。

コタラジャ 2

2006-06-28 09:53:29 | Weblog
 ある日、何処からともなく、飛行機の爆音が聞こえてきた。どうも音の響きから5,6機以上で西かららしい。
 「敵機だッ!」
 私達は叫んで外に飛び出し、監視硝の下に駆けつけた。その時の監視兵は西村一等兵。
 「オイッ!、西村!、何機だッ!」
 「見えません」
 「馬鹿ッ!、お前の頭の上じゃないかッ!」
と藤森分隊長は怒鳴った。
 爆撃機らしきんものが5,6機、黒く東に向かって飛んでいくのがはっきり見えた。
 「みんな来い!」藤森分隊長は叫んで通信所に駆け戻り、電文作成。
 「只今敵機6機、東に向かって飛行中。」
 これを暗号書によって数字に直し、乱数表の数字を加えて出た数字を通信文に書く、その頭に分隊名をつける。分隊長超特急作業。その間に
 「発電開始」手回し発電機が2人の兵隊でゴウーゴウーと回されると、周波数の調整、空中線電流の調整、感度と明瞭度の確認を大急ぎで済ませると、暗号作業を終った分隊長が、
 「俺が打つッ」と私と交代して電鍵を握り、叩きつけるようにして、送信を終った。その間、緊張の連続。これが私達の分隊が展開以来、初めての実戦であった。
 この敵機襲来の第一報が、ダナンの防衛司令部に届いたのが、私達の分隊のが一番早く、有線の通信より15,6秒早かったとかで、本部から褒章があったそうだ。

コタラジャ(現、バンダアチェ) 1

2006-06-27 22:49:12 | Weblog
 9月7日、展開の為、メダン出発。 
 分隊長 藤森秀治軍曹、浅野栄太郎兵長、渡辺千代治上等兵、大島 実上等兵、飛鳥馬(アスマ)五一郎上等兵、井ノ口茂次一等兵、西村仁作一等兵、斉藤永松一等兵の8名。
 宮原中隊長に申告して、コタラジャ(現、アチェ州最大の都市)に向けて出発。申告に行ったまでは記憶にあるが、輸送は多分、軍用トラックだったと思う。
 9月9日、スマトラ島最北端のコタラジャ着。北部防衛司令部(元、オランダ軍司令部後)の中の一舎が与えられた。オランダ軍将校の独立宿舎で、道路に面して、3部屋と調理室の付いたこじんまりした綺麗な建物だった。
 早速、藤森分隊長は司令部へ申告。帰ってから一室に器材を運び込んで、通信所の開設を急ぐ。通信器は道路から見えないように、次の部屋にする。それから空中線張り。
 「メダンはどの方角か?」と、磁石を手にして、延ばす方向を決めた。その時、空中線が一寸見慣れないものだったので、藤森分隊長に聞くと、
 「そこにあったから、引きちぎってきた」と言ったが、後でその部隊の人が
 「油断のならない奴らだ。あれは無理に要るものじゃなかったが、一口言えばくれてやるのに」と言ったとか聞いた。
 接地線(アース)は空中線とは反対方向に芝生の上に長く這わせた。接地棒を打ち込まなくても良いのですかと聞いたら、
 「いや、この方法が良いんだ」と言った。
 通信は藤森分隊長、浅野兵長と私が回り当番でやって、後の人が航空機監視をした。監視硝は本部の高い屋根の上に作ってあった。3階建の屋根位の高さであった。

軍歴表 2

2006-06-25 11:57:58 | Weblog
 情報連隊の服装は、戦闘帽には日除けのビラビラを着けた中隊と着けない中隊があり、うちの中隊は着けなかった。椰子の葉を使ったヘルメット形の、昔のアフリカ探検隊が被っていたような帽子もあった。
 平常の上着は少し青みがかった濃緑色の半袖であった。この上着は北スマトラ、アチェ地区では評判が悪かった。満州ゴロ(北満の各部隊からの転属者の集まり、転属させられる者は大抵そこの余り者が多かったから、満州ゴロツキを縮めて満州ゴロと言っていた)の多い隊では、よく「いただき」または「員数つけ」をやったので
「オイ、あの上着が来たら用心せい」という具合だったらしい。
 この北スマトラ地区は近衛第二師団の育ちの良いのが多かった為、満州下りは一寸骨っぽくて、荒々しく、持て余し気味のようだった。
 「お前等のような上着を着た奴が来てのウ」とよく悪口を言われた。
 下は半ズボンだった。これは野山を駆け回るときには都合が悪かったが、蒸れなくて、非常に良かった。
 しかし、何かある時には長ズボンをはいて、巻き脚袢を巻いたが、暑いので着た最初は一寸汗が出たが、外気が湿気のないサラッとした気候なので、後は変わらなかった。
 軍歴書には7月17日メダン着、9月7日展開の為メダン出発となっているが、53日間何をやっていたのか、何か忙しかったのか、ある時、メダンの農事試験場の横を通った時、暇を作って見学に行きたいと考えた事などが思い出される。

軍歴表 1

2006-06-24 23:04:38 | Weblog
 昭和19年7月25日 昭和19年四九日九師飛(意味が分からなかったのですが暗号だそうです)編成第95号による編成改正着手
 7月31日編成完結。同日第七航空情報連隊に転属。 情報弟二中隊に編入。
 第二中隊長 陸軍中尉 宮原茂寿
 部隊称号  富第一八四八四部隊宮原隊
 8月1日 岡村連隊長が広場に全員を集めて、訓示を行った。
 続いて第二中隊長 宮原中尉が 
 「第二中隊の指揮は この宮原が執る」と宣言した。
 そして第二中隊の兵隊の左胸に七糎四方位の白布に「捉」(そく)の字を書いたものを付けさせられた。外出から帰った兵隊が
 「今日、メダン市内で、よその将校から、お前の胸の捉は何だと聞かれました」と報告していた。「捉」は「捕捉」の捉をとったもので、敵機をいち早く捕らえるという意味からきている。

  

メダン 3

2006-06-23 21:28:16 | Weblog
 日曜日、外出許可があった。浅沼兵長が
 「斉藤、面白い所に連れて行くから、ついて来い」と言った。
 浅沼兵長は、私より歳が多いように見えたが、物静かな温和な人だった。外出する時は、なるべく階級の上の人と一緒が、敬礼などの煩わしさがなくてよかった。
 浅沼兵長がメダン市内のある薄暗い家に入ったので私も続いて入った。私達のほかに何人かの兵隊がいた。部屋は10坪位だったか、中央付近に丸いテーブルがあり、周りに椅子が、4,5脚とソファーみたいなのがあった。
 浅沼兵長が「座れ」と私に言って、自分も腰を下ろした。《何をする所だろう》と思って見回していると、何処からか薄汚れた上着とスカートみたいなのを着けた、色の黒い身長1メートル50センチより一寸高くて、体重が70キロ以上はあろうかという女が現れて、そばのソファーにドタンと腰掛けた。
 私はびっくりして、その女を見た。女は不貞腐れたような、くたびれた無愛想な顔で黙っていた。浅沼兵長が
 「その女はどうだ」
と言ったので、この時初めて、ここはピーヤだと分かった。私は呆れて
 「これでも女ですか」と言ったら
 「女だよ。どうだ」と言う。私は
 「へエー、これがネー」と言ったまま、浅沼兵長の顔を見ていたら
 「斉藤、帰るぞ」と言ったので、急いで外に出た。宿舎に帰る途中、 
 「エライ奴が居たなあ」と兵長は呟いていた。
 空中線の張り方の教育があった。原隊で習ったやり方と一寸違ったので、そう言ったら、
 「何処で習った」と聞くから
 「電信第6連隊であります」と言ったら嫌な顔をされた。

メダン 2

2006-06-22 19:18:12 | Weblog
 将校が来たので敬礼をすると
 「お前達、どうした?」
 これこれで待っていると答えると「そうか」といって立ち去った。
 1時間位して藤森軍曹が帰って来たので、薄暗くなったメダンの街を足早に通ったが、メダンホテル(日本軍の将校集会所)は将校たちで賑わっていた。
 途中、宮原隊長に出会った。藤森軍曹がメダン病院に輸血に行っての帰りであることを告げると、隊長は私の傍に駆け寄ってきて
 「斉藤、だいじょうぶか?」
と言って額に手を当てて、熱を測った。そして
 「大事にせい」と言ってくれた。
 宿舎に帰ったら、古参兵が
 「えらく遅かったじゃないか?」
と聞いたから、こうして待たされたので遅くなったと答えたら、
 「藤森軍曹は何処に行ったと思うか?」
 「分かりません」
 「ピーヤに行ったんだよ」と言ってニヤニヤ笑った。
 それから1週間もしないうちに
 「斉藤来い、輸血だ」と長尾軍曹が言うので
 「自分はこの間、やりました」と答えたら、
 「何回でもよい」と、又、連れて行かれた。
 静脈から少し摂れたが後は空気ばかり、ブクブクと吸い取られて血は上がってこなかった。それでは、手の甲からと注射針を差し込んだが、やはり、空気だけがブクブクと吸い取られるだけだった。
 「摂れないな」とか何とか行って、放免されたが、未だ充分回復していないのに、軍隊とはいえ、随分乱暴な事をするものだが、私のほかにAB型が居なかったのかもしれない。
 輸血した者には、牛乳の特配があることになっていたそうだが、私は2,3本飲んだだけで、後は行方不明であった。きっと、古参兵たちがごまかしたのだろう。
 

メダン 1

2006-06-21 18:53:28 | Weblog
 7月17日、メダン駅から郊外の宿舎まで行軍。宿舎はもとオランダ軍の将校宿舎だったらしく、大きな道路を挟んで、椰子の木が繁り、しゃれた1戸立てが10メートル越し位に並んでおり、そこに班別に分けて入れられた。
 そこの道路は入り口と出口がバリケードで閉ざされ、兵隊の訓練場として使われた。大きな椰子の下葉が枯れて垂れ下がっていた。 注意があった。
 「椰子の下葉がああなっている下は注意して通るように。もし、落ちて当たったら大怪我をする。当たり所が悪かったら、死ぬこともあるから。」 オランダ軍が敗退した後、手入れがしてなかったのだろう。桿(みき)からもげて道路に落ちているのを見たが、成る程大きい。まともに当たったら大事だ。
 この椰子の木にはリスがいて、チョロチョロと桿(みき)を上、下と動き回っていた。又、2メートル位離れた別の木に飛び移るのを見たが、これはムササビで、リスではなかったようだ。脇の所から何か膜みたいなものが見えたと思う。
 それから、夜は通信の教育が始まった。2,3班の兵隊を集めて ト、ツー、トトッーとやっていた。私達通信隊出身者は最初歩からの教育に
 「又始まったか、おかしくて」と私と西村だったか部屋の外で、星を見ていた。そこへ佐藤という古参兵が来た。
 「お前達、何をしている!」
 「ハイッ」
 「通信の教育にはおかしくて出れんのか、お前たち何処から来た」
 「ハイ、電信第6連隊であります。」
 「フーン、電信第6連隊か。ヨシ、明日から出て来い、生意気だ」
 とビンタを1発づつとられた。古参兵が立ち去った後、2人は頬を撫でて笑った。
 次の夕方、その宿舎に行った。15,6名集まって、兵長が電鍵を机の上に置いて構えていた。私の姿を見ると兵長が
 「斉藤、打ってみい」
と命令した。ホイきた。昨夜のことがばれたか…。
 「ハイッ」
と兵長と交代した。発振機に接続された電鍵を2ヶ月ぶりに握る。
 「数字を最初から打ってみろ」
お出なさったな。これが本職だいとばかりに基本通りに打った。兵長は
 「フーン、それではこの数字を打ってみろ」
 「幾つ位の速さで速さで打ちますか」
 「30字位だ」
 私はゆっくり、1分間に30字位で打った。
 「今の 取れた者」
殆ど全員が取れていた。
 「ヨーシ、次は35字で打ってみろ」
私はその通り打った。これも全員良く取れていた。
兵長が30字で打つと半数近く取れない。35字になると殆どいなかった。
 「本当に今のは35字ですか?」
と言う者もいた。兵長のと比べたら遅いように感じるという。
 「ヨシ、斉藤、お前明日から助手をしろ」
と命令されて、1週間ばかり助手をした。後では40,50,60,70と打って診せたが40ぐらいは全員とれるようになっていた。
 それから通信技術の検査が中隊であった。展開の為の分隊編成がこれで決められた。(この時、藤森軍曹が私を無理に自分の班に入れたという)
 本部に使役に行った時、謄写版の部分品が来ていたので、絹を張って謄写出来るように組立ててやった事もある。
 それからある日、
 「斉藤、お前血液型はAB型だろう。一寸来い。」
と言われて、もう1人の兵隊と班長の藤森軍曹と3人でメダンの陸軍病院に公用外出をした。同じ部隊の者が入院していて輸血が必要との事で200cc採られた。
 病院から3人で門を出ると
 「お前達はここで待っておれ。俺は一寸用事があるから」
と藤森軍曹はどこかに行ってしまった。メダンに来たばかりで、地理に不案内の私達はどうすることも出来ず、言われたとおり、門の外で待っていた。



スマトラ へ

2006-06-19 19:36:29 | Weblog
 7月9日、昭南(シンガポール)に10日間いて、もうアメーバ赤痢保菌者がいないということが分かると、軍用貨物列車で昭南駅出発。貨車は家畜輸送用のものに、筵(むしろ)を敷いたものであった。
 ここで初めてパパイヤを食った。現地人から同車の兵隊が、美味しそうだったので買ったのだが、車内に持ち込んで、恐る恐る一切れづつ食べたが、何か変な味がして、美味しいとは思わなかった。それで残りは車外に放った。
 また、向こうで別の者が果物みたいなのを切った途端、卵の腐ったような臭いが車内に充満した。
 「臭いぞ!」
 「何やっているんだ、捨てろ!」と、総攻撃を受けて捨ててしまったが、実はこれがドリアンだったのである。
 私達、パパイヤを食べた連中は下痢をした。列車が停まると急いで飛び降り、そこらの草むらの影でやった。やっている最中、列車が
 「ピーッ」といって、ゴトンと動き出すと
 「オーイ 早く来い…」尻拭いも中途半端で列車に飛び乗った。私も2回くらいやったが、他の者もやっていた。
 昼頃、クアラルンプール駅着。駅は寺院みたいな建築様式であった。駅前の広い公園を通って司令部に行き、昼食糧秣受領。何かの入った(何であったか記憶にない)バケツを下げて帰った。
 7月10日、クアラルンプールの西方、マラッカ海峡に面した、ポートセッテンハム着。
 7月14日、ポートセッテンハム港出帆。この港は大した設備もなく、軍装しての縄梯子の乗船はフニャフニャして上りにくかった。
 マラッカ海峡は浅いらしく、なにやら濁っていた。
 ヘラワン港で「菊丸」という30トン位の焼玉エンジンの船に乗り替えた。
 「ここまで来れば潜水艦は大丈夫だよ」と船長は言った。途中で浅瀬に乗り上げたりしながら、やっと…
 7月16日、スマトラ島、テルクニホンに上陸。
 そこから汽車でメダンヘ。

昭 南 (シンガポール) 2

2006-06-18 11:26:02 | Weblog
 こんな状態で果たして、上陸後すぐ、戦闘が出来るのであろうか。1ヶ月余りの輸送船内の制限された食事の結果、私達の爪は柔らかくなって、親指の爪もフニャフニャでむしると直ぐ剥がれた。これが回復するまでには、優に1ヶ月以上もかかった。
 とにかく宿舎まで辿り着き、割り当てられた場所に行って、軍装を解いた。陸上の、屋根のある家の内で久しぶりに眠った。
 翌日は検便。硝子棒の先の一寸丸くなったものを、肛門に差し込んで、グイとねじって引き出す。ホイッ、ホイッと次々にやられて、
 「あの時は痛かったなあ」とみんなが言った。
 検便の結果、アメーバ赤痢が何名か発見され、保菌者は直ちに病院に収容され、他に未発見の保菌者がいるものと見られて、マニラ丸から上陸した全員が隔離された。便所も既設のものは一切使用禁止、別に土を掘って、急造の便所を使用させられた。
 外出は、公用も出来るだけ制限していたようであった。ろくに栄養もとれず、伝染病に侵されて、骨と皮に病人はなっていた。
 この兵舎は英軍の兵舎だったということであった。