「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

食糧不足 2

2006-08-30 10:14:41 | Weblog
私達は昼食に持って行ったビスケット2枚か3枚食って水筒の紅茶(出しがらでただ色がついているだけ)をガブガブ飲むと、なるべく日の射さぬ所に12時55分頃まで、アンペラや紙切れを被って寝た。よくしたもので5分前位には不思議と目が覚めた。
 橋の下に寝れば鼠の死んだのやゴミが枕元を流れて行く。どぶの臭いも慣れたもので余り苦にしなかった。
 この頃から糧秣倉庫の作業に人気が出た。監視の目を盗んで缶詰をチョット失敬するのだ。作業に行った者がチームを組んで、見張り役、実行役、食べる役と受け持って、ハム、チーズ、バターを戴いたものだ。
 生米、メリケン粉(これは水で団子にして食う)、生ピーナツ(これは上等だった)など手当たり次第食える時には食った。ものの分かった将校は
 「俺が見張ってやるから、お前達見つからぬようにやれ」と言って、倉庫の入り口の所で、英兵となにやらしゃべり廻っている。その間、私達は死角でごっそり頂き、素知らぬ顔で出てくるということもやったが、空き缶は見つからない所に隠しておくことを忘れなかった。
 ある者は見つかって英兵からキャンプの周りを5,6回追い回されたが、丁度そこにいた仲間に紛れ込んだ。英兵が顔を指さして
 「ユー?」と言ったそうだが平然として「ノー」と言ったら、怪訝な顔をして立ち去ったこともあった。
 他の部隊で大尉の人がいた。引率して作業に出ていたが、ある時、インド人の食べるライスカレーを黒人の監督からおごられて、自分1人で食ったそうだ。それからこの人のことを「カライカライ大尉」と呼んだ。引率して通ると
 「カライカライ大尉が通るよ」とみんなで笑った。
 作業が終って帰る道、みんな軍靴をゾロリゾロリとアスファルトに引きずって歩いた。足が重くて上がらないのだ。道の側の支那人街は夕食のところもあった。彼達は食事は他の人が見るところでとる習慣があるので、道から見えるところに食卓を出して一家団欒で楽しそうに食事をしていた。それを見て
 「畜生」と誰かが言った。きっと故郷のことを思い出したのであろうか、また、空き腹がギュウーッと応えてきたのか、両方であろう。こんな時、何か話しかけようものなら「黙っとれ」と怒られた。腹が減って、ものを言うのも難儀だった。
 私達はただ黙々と足を引きずって遠い道を作業隊幕舎まで帰って行った。

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